URL |
https://sitereports.nabunken.go.jp/112107
|
DOI 二次元コード |
|
DOI |
http://doi.org/10.24484/sitereports.112107
|
引用表記 |
公益財団法人愛知県教育・スポーツ振興財団愛知県埋蔵文化財センター 2010 『研究紀要』公益財団法人愛知県教育・スポーツ振興財団愛知県埋蔵文化財センター
|
公益財団法人愛知県教育・スポーツ振興財団愛知県埋蔵文化財センター 2010 『研究紀要』
|
wikipedia 出典テンプレート :
{{Cite book|和書|first=和暁|last=川添|first2=宏幸|last2=永井|first3=立人|last3=石黒|first4=邦仁|last4=永井|first5=絵美|last5=奥野|first6=誠一|last6=蔭山|first7=昇|last7=樋上|title=研究紀要|origdate=2010-03|date=2010-03|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/112107|location=愛知県弥富市前ケ須町野方802-24|ncid=AA11568230|doi=10.24484/sitereports.112107|volume=11}}
閉じる
|
ファイル |
※モバイル対応のPDFは解像度を下げているため、画像が粗く文章が読みにくい場合があります。
|
書名 |
研究紀要 |
発行(管理)機関 |
(公財)愛知県教育・スポーツ振興財団愛知県埋蔵文化財センター
- 愛知県
|
書名かな |
けんきゅう きよう |
副書名 |
|
巻次 |
11 |
シリーズ名 |
|
シリーズ番号 |
|
編著者名 |
|
編集機関 |
公益財団法人愛知県教育・スポーツ振興財団愛知県埋蔵文化財センター
|
発行機関 |
公益財団法人愛知県教育・スポーツ振興財団愛知県埋蔵文化財センター
|
発行年月日 |
20100300 |
作成機関ID |
|
郵便番号 |
4980017 |
電話番号 |
0567674163 |
住所 |
愛知県弥富市前ケ須町野方802-24 |
報告書種別 |
年報・紀要・研究論集・市史研究等・文化財だより
|
資料タイプ |
Research Paper |
発掘調査報告 |
掲載されていない(発掘調査報告書総目録の掲載対象外) |
所蔵大学(NCID) |
|
JP番号 |
|
他の電子リソース |
|
備考 |
|
所収論文 |
タイトル |
縄文後晩期の岩偶岩版類について 東海地域の事例を中心に |
英語タイトル |
|
著者 |
川添 和暁
|
ページ範囲 |
1 - 24
|
NAID |
|
都道府県 |
福井県
岐阜県
静岡県
愛知県
三重県
滋賀県
鹿児島県
|
時代 |
縄文
|
文化財種別 |
考古資料
|
遺跡種別 |
|
遺物(材質分類) |
石製品
|
学問種別 |
考古学
|
テーマ |
|
他の電子リソース |
|
引用表記 |
wikipedia 出典テンプレート :
{{Citation|first=和暁|last=川添|contribution=縄文後晩期の岩偶岩版類について 東海地域の事例を中心に|title=研究紀要|date=2010-03|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/112107|location=愛知県弥富市前ケ須町野方802-24|ncid=AA11568230|doi=10.24484/sitereports.112107|volume=11}}
閉じる
|
抄録(内容要約) |
本稿では、東海地域の資料を中心に、関西地域の資料をも含めて、確認できた岩偶岩版類について集成・分析を行った。岩偶岩版類を、断面形状から板状のものと非板状のものに分け、板状を13 類型に、非板状を4 類型に分類できるとした。これらは縄文時代後期中葉から晩期末までに認められるが、後期中葉から晩期初頭中心の伊勢湾西岸域と後期末から晩期末までの伊勢湾東岸域との様相の差を指摘し、後期岩版類や分銅形土偶、および南九州域の影響を受けた伊勢湾西岸域の様相から、やや東海地域の独自色を出した伊勢湾東岸域の様相へと変遷して行くと考えた。また、岩偶岩版類と線刻礫、および石錘と言われているものの一部にも有機的関係を示すと考えられるものが存在する可能性を指摘した。 |
タイトル |
金剛坂式土器の系譜 紅村弘の学説を振り返る |
英語タイトル |
|
著者 |
永井 宏幸
|
ページ範囲 |
25 - 36
|
NAID |
|
都道府県 |
|
時代 |
縄文
弥生
|
文化財種別 |
考古資料
|
遺跡種別 |
|
遺物(材質分類) |
土器
|
学問種別 |
考古学
|
テーマ |
|
他の電子リソース |
|
引用表記 |
wikipedia 出典テンプレート :
{{Citation|first=宏幸|last=永井|contribution=金剛坂式土器の系譜 紅村弘の学説を振り返る|title=研究紀要|date=2010-03|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/112107|location=愛知県弥富市前ケ須町野方802-24|ncid=AA11568230|doi=10.24484/sitereports.112107|volume=11}}
閉じる
|
抄録(内容要約) |
紅村弘が提唱した金剛坂式土器の系譜を検討する。まず紅村による半世紀におよぶ研究から、紅村の言説を振り返り、現状での定義を再考する。ついで、遠賀川式土器から派生したのではなく、縄文晩期土器からの系譜を主張する紅村の考え方に導かれながら、近年の新出資料に型式学的検討を加える。ところで、伊勢湾西岸以東の地域型突帯紋系土器は馬見塚式土器の無紋・条痕紋土器(増子2類)を含まない。一方、西岸域における突帯紋系土器様式の終焉と遠賀川系土器の交流の一端が金剛坂式土器を成立させた。その過程を西岸域および琵琶湖周辺を含めた環伊勢湾岸域に求め、検討した。その結果、突帯紋系土器様式と遠賀川系土器様式の折衷形として在地型遠賀川系土器、すなわち金剛坂式土器が成立したことを提示した。 |
タイトル |
「貝田町式土器」生成論 |
英語タイトル |
|
著者 |
石黒 立人
|
ページ範囲 |
37 - 50
|
NAID |
|
都道府県 |
愛知県
|
時代 |
弥生
|
文化財種別 |
考古資料
|
遺跡種別 |
|
遺物(材質分類) |
土器
|
学問種別 |
考古学
|
テーマ |
|
他の電子リソース |
|
引用表記 |
wikipedia 出典テンプレート :
{{Citation|first=立人|last=石黒|contribution=「貝田町式土器」生成論|title=研究紀要|date=2010-03|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/112107|location=愛知県弥富市前ケ須町野方802-24|ncid=AA11568230|doi=10.24484/sitereports.112107|volume=11}}
閉じる
|
抄録(内容要約) |
貝田町式は、西の「櫛描紋」、東の「条痕紋」とは異なる明確な地域性をもって成立し、伊勢湾岸域の弥生中期中葉を特徴づけている。それを弥生文化の3 要素になぞらえれば、東西両系に対する「独自系」となり、型式学的には「折衷型」に重点を置くことになる。今回は紋様に絞って具体的に生成過程を検討した。 濃尾平野の朝日遺跡周辺において、中期前葉の朝日式2 期の櫛描紋要素と岩滑式3 期の条痕紋要素を中心にして、その他の要素を含めた相互影響と型式学的変異が多産される状況が生まれた。それが再編される過程の中で、直接には条痕紋系に起源をもつ「付加沈線研磨手法」が貝田町式の紋様構成を規定する形制が成立した。「付加沈線研磨手法」によって施される紋様は朝日遺跡では黒色焼成の精製土器群(各種壺と鉢等)に採用され、同時に細頸壺を除いては同種の土器が周辺地域で広く共有されることが無いという特種な状況も生まれた。よって「貝田町式」とは〈斉一性〉とはほど遠い、斑状の濃淡を内実とする型式であることがより鮮明になった。 |
タイトル |
碧海台地東縁の古代集落 |
英語タイトル |
|
著者 |
永井 邦仁
|
ページ範囲 |
51 - 60
|
NAID |
|
都道府県 |
愛知県
|
時代 |
古代(細分不明)
|
文化財種別 |
考古資料
|
遺跡種別 |
集落
|
遺物(材質分類) |
|
学問種別 |
考古学
|
テーマ |
|
他の電子リソース |
|
引用表記 |
wikipedia 出典テンプレート :
{{Citation|first=邦仁|last=永井|contribution=碧海台地東縁の古代集落|title=研究紀要|date=2010-03|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/112107|location=愛知県弥富市前ケ須町野方802-24|ncid=AA11568230|doi=10.24484/sitereports.112107|volume=11}}
閉じる
|
抄録(内容要約) |
西三河地域の中でも碧海台地東縁を対象として、古代集落遺跡の立地がどのように推移するか検討した。7 世紀代には開拓集落が台地縁辺で増加傾向にあるが、8 世紀前半は特に、より高燥な台地奥部への進出がみられる。その後、8 世紀後葉を画期として水辺近くへの移動が本格化する。この一連の集落移動には村落首長層が伴っており、律令国家的権威を背景にしながらも在地首長層の主体的な意志がはたらいたものと考えた。 |
タイトル |
中世下津宿を考える(その2) 自然科学的古環境解析とその評価 |
英語タイトル |
|
著者 |
奥野 絵美
蔭山 誠一
|
ページ範囲 |
61 - 72
|
NAID |
|
都道府県 |
愛知県
|
時代 |
中世(細分不明)
|
文化財種別 |
考古資料
|
遺跡種別 |
集落
|
遺物(材質分類) |
|
学問種別 |
考古学
|
テーマ |
|
他の電子リソース |
|
引用表記 |
wikipedia 出典テンプレート :
{{Citation|first=絵美|last=奥野|first2=誠一|last2=蔭山|contribution=中世下津宿を考える(その2) 自然科学的古環境解析とその評価|title=研究紀要|date=2010-03|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/112107|location=愛知県弥富市前ケ須町野方802-24|ncid=AA11568230|doi=10.24484/sitereports.112107|volume=11}}
閉じる
|
抄録(内容要約) |
平成19 年度と平成20 年度に実施された長野北浦遺跡における発掘調査によりみつかった中世の区画溝や井戸の埋土中より抽出された昆虫化石と植物種実化石を分析し、古環境を考えた。その結果鎌倉時代を中心とする時期(12 世紀後半〜14 世紀)の長野北浦遺跡における調査地点付近の古環境は人間が営む生産域に囲まれた中で、やや人間の営みに伴う人為的廃棄が少数及ぶ居住地に近く、かつ人間による手入れが少ない樹々が生育できる場所と想定した。また平成11 年度に報告された下津北山遺跡の自然化学分析の再検討を行い、中世下津宿の古環境の再評価を行った。 |
タイトル |
稲沢市一色青海遺跡出土の絵画土器について |
英語タイトル |
|
著者 |
樋上 昇
|
ページ範囲 |
73 - 78
|
NAID |
|
都道府県 |
愛知県
|
時代 |
弥生
|
文化財種別 |
考古資料
|
遺跡種別 |
|
遺物(材質分類) |
土製品(瓦含む)
|
学問種別 |
考古学
|
テーマ |
技法・技術
|
他の電子リソース |
|
引用表記 |
wikipedia 出典テンプレート :
{{Citation|first=昇|last=樋上|contribution=稲沢市一色青海遺跡出土の絵画土器について|title=研究紀要|date=2010-03|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/112107|location=愛知県弥富市前ケ須町野方802-24|ncid=AA11568230|doi=10.24484/sitereports.112107|volume=11}}
閉じる
|
抄録(内容要約) |
本稿では、平成21 年度に発掘調査をおこなった稲沢市一色青海遺跡から出土した、鹿の絵を描いた絵画土器を紹介する。併せて、これまで愛知県内から出土している弥生〜古墳時代に属する、鹿の絵を描いた絵画資料についても簡単に触れることとしたい。 |
|
所収遺跡 |
|
要約 |
|