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明治期における多言語学習について ― 赤峰瀬一郎『日韓英三国対話』(1892)を中心に ―

張 賢雅 ( 奈良文化財研究所 )

Learning Languages in Meiji Period: Analysis of Akamine Seichiro's "Nichi Kan Ei Sangoku Taiwa"

Jang Hyunah ( Nara National Research Institute for Cultural Properties )
Submitter : 奈良文化財研究所 - 奈良県
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張 賢雅 2025 「明治期における多言語学習について ― 赤峰瀬一郎『日韓英三国対話』(1892)を中心に ―」 『文化財多言語化研究報告』 文化財多言語化研究報告 https://sitereports.nabunken.go.jp/online-library/report/99
目次

はじめに

 最近、サービスや情報の提供を日本語とともに英語、中国語、韓国語など複数の外国語で行う多言語対応が大きく進んでいる。それは、博物館、交通機関、役所などの公共施設でよく見かける。その背景には、インバウンドの急増をはじめ、就労、学業、事業など、様々な理由で海外から日本へ渡ってくる人々が増えていることがある。また、そのような現状は、日本社会における外国語需要の増加を示しているとも言える。
 外国語への社会的な関心は、最近の新しい現象でない。以前にも外国語の需要が急増した時期があったが、それは幕末から明治期にかける時期である。いわゆる「鎖国」ともいう江戸幕府による日本の対外政策は、黒船の来航、開港、明治政府の成立など、一連の出来事がきっかけで大きく変化した。その影響によって外国語への社会的関心や需要は高まった結果、外国語教育が急速に進行した。江戸幕府は、1885年に洋学所を設置し、また明治政府は1871年に洋語学所、漢語学所を、翌年の1872年に韓語学所を設立した。そして、対外状況や外交政策の変化は民間にも影響を与え、民間により外国語学校の設立や、外国語学習書の刊行などが行われた①。要するに19世紀半ばから外国語教育が急展開していたのである。
 また、一つの外国語に止まらず、二つ以上の外国語を並行して学習するという、多言語学習も行われていた。とりわけ、明治期には多言語学習書が多数刊行されており、本稿で検討する『日韓英三国対話』②(以下、『対話』)もそれに該当する。『対話』は、日本で最初に刊行された日・朝・英、3言語対照学習書として評価されているものである③。また、詳細は後述するが、『対話』の内容は、家、学校、商店、病院などで行われている対話で構成されていることから、同書は日常生活での外国語の使用を想定して刊行されたと考えられる。換言すれば、日常生活のなかでも多様な外国語を使う機会が増えていたのである。
以上のように外国語教育の展開や多言語学習書の刊行は、社会の変化と関連している。しかし、明治期の多言語学習書に関する研究は言語学の観点からのアプローチに偏っている。代表的に19世紀末から20世紀初にかけて刊行された約10種の多言語学習書を検討した李康民は、それらの学習書の概要を述べ、近代韓国語の語彙や日本語のなかでも東京語の形成などを分析した④。それと同じ視点から、李は『対話』の成立と内容を検討し、言語資料としての性格について考察した。また、「行く」の連用形や、イ音便化されていないナサル系列の動詞などを取り上げ、『対話』の日本語は東京語として規定し難いと分析した。それは、『対話』の序文において著者の赤峰が「日本語ハ東京語ヲ用ヒタレ」と述べられていることに対する指摘として理解できる。
 その他、多言語学習書に関する分析は目立たないが、関連研究として明治期に日本で刊行された韓国語学習書を分析した先行研究が注目できる。江戸時代に雨森芳洲が編纂した朝鮮語教材『交隣須知』⑤が明治期にも活用されていたことに着目し、明治期の『交隣須知』の刊本を分析した研究⑥、明治期に日本で刊行された韓国語の学習書を分析し、『交隣須知』の影響や新しい要素など検証した上で、韓国語学習の過渡期的特徴を解明した研究⑦、浦瀬裕が校正・増補した外務省蔵版の『交隣須知』と『隣語大方』における韓国語の表記、音韻、語彙など文法的特徴を比較・分析し、それらの本は通訳官の外交的業務のために編纂されたテキストだと論じた研究⑧などがある。これらの研究は、明治期の韓国語学習書と以前の時期のものとの関連性を明らかにしているが、言語学の観点からのアプローチとして位置づけられる。
 ところで、明治期における日本人の韓国語学習を考察した南相瓔の研究が興味深い⑨。南は、日本の朝鮮語教育機関や学習書を検討し、その展開を朝鮮植民地化の過程と合わせて考察した。南の研究は言語教育に着目し、政治的・社会的変化を検証した点が特徴的である。そのような視点によれば、日本で最初に刊行された日・朝・英、3言語対照学習書として評価されている『対話』についても追加的分析が可能であろう。また、明治前期の韓国語会話書に注目し、その時代背景や特徴およびそこにあらわれた近代日本語の様相について検討した成玧妸は、「朝鮮語会話書は明治10年代の会話書は、交隣・交易のためのものであったが、明治20年代のものは、軍人を対象としたものが主をなしているなど、政治的情勢による内容の変化が認めらえる」と論じ⑩、『対話』も取りあげてその内容を紹介した⑪。そして、南と成の研究では明治期の朝鮮語教育や学習の始まりが征韓論との関連から述べてられている点が特徴的である。
 そこで、日本で最初に刊行された日・朝・英、3言語対照学習書と言われている『対話』に着目し、同書が刊行された時期の政治的・社会的特徴を考察したい。そのため、まず『対話』の著者である赤峰瀬一郎の経歴や同書の著述背景について検討する。次に『対話』の内容を分析し同書の目的とその特徴を把握した上で、最後に同書が持つ歴史的意味を分析したい。『対話』が刊行された1890年代は、東アジアの情勢や秩序が変動しており、それとともに日本の対外政策や認識も変わりつつあった。そのため、『対話』のような多言語学習書を検討することによって、言語が持っている歴史的位置も見えてくるのでないかと考える。

 注

①幕末から明治前期までの外国語教育については、「外国語教育」(日本近代教育史事典編集委員会編『日本近代教育史事典』平凡社、1971)、382~383頁を参照。
②赤峰瀬一郎『日韓英三国対話』第1部・第2部(岡島宝文館、1892)。国会図書館デジタルライブラリー、第1部:info:ndljp/pid/869548;第2部:info:ndljp/pid/869549。
③李康民「1892年刊行『日韓英三国対話』について」(韓国:『日本学報』63、2005)、105頁。
④李康民「開化期における多言語学習書と近代日韓両国語」(韓国:『日本学報』一〇四、二〇一五)。
⑤『交隣須知』は、18世紀に儒学者でありながら、対馬藩で外交担当していた雨森芳洲によって著述されたと言われている韓国語学習書である。『交隣須知』は1881年外務省が刊本を出す前まで、約200年間写本で伝われてきたため、筆写本、増補本、版本など多様な形のものが存在しているが、その中で全体が揃っている写本は京都大学文学部言語学研究室所蔵のものである。『交隣須知』については、京都大学文学部国語学国文学研究室 編『交隣須知』(京都大学国文学会、1966)を参照。
⑥李明姫「明治時代の朝鮮語学習―『交隣須知』の時代別背景を中心に―」(韓国:『日語日文学研究』44、2003);「明治時代の朝鮮語学習―『交隣須知』が使われた理由について―」(韓国:『日語日文学研究』49、2004)。
⑦李康民「文明開化期における日本の韓国語学習書―言語資料としての性格と成長性を中心に―」(韓国:『日本学報』67、2006)。
⑧キムジュピル・イミンア「日本外務省蔵版19世紀末朝鮮語教材の言語使用の様相と特徴:『交隣須知』と『隣語大方』を中心に」(韓国:『言語学』70、2014)。
⑨南相瓔「日本人の韓国語学習―朝鮮植民地化過程に焦点をあてて―」(『教育学研究』5-2、1991)。
⑩成玧妸「明治前期における朝鮮語会話書の特徴とその日本語」(韓国:『日本文化研究』30、2009)。
⑪ただ、日清戦争が勃発した1894年までは「交隣・貿易」を目的とする韓国語会話書が主に刊行されていたと論じているので、『対話』もそれに該当するものとしてみていると考える。また、成は別稿でも『対話』を貿易、外交、通商との関連から説明し、日清戦争以前の朝鮮語会話書の特徴について述べている。しかし、それらの本について、釜山草梁にある語学所の教官や学生が書いたものだと説明しているが、『対話』を書いた赤峰と釜山草梁の語学所との関係は不明である。成玧妸「近代日本における朝鮮語会話学習の熱気―朝鮮語会話書ブームの実体―」(韓国:『アジア文化研究』25、2012)、74~75頁。

1 赤峰瀬一郎と『日韓英三国対話』の刊行

(1)赤峰瀬一郎の履歴

 先行研究のなかで、『対話』について言及しているものは少なくないが、同書を書いた赤峰について詳しく述べているものは少ない①。そのため、『対話』の著述背景を詳細にとらえるためには、その先に著者の赤峰について把握しておく必要がある。したがって、本節では赤峰の履歴についてできるかぎり解明したい。
赤峰について生没年は不詳であるが、熊本出身で熊本洋学校を卒業したことは確認できる②。熊本洋学校は、1869年に洋学所という名で熊本藩の藩費で開校し、1870年洋学校に改称した西洋学問の教育施設である。その翌年の1871年には米国からリロイ・ランシング・ジェーンズ(Leroy Lansing Janes)を迎え入れ、彼は数学、地理、歴史、英語など諸科目を担当した③。1876年熊本洋学校に在学していた赤峰はジェーンズより受洗し、キリスト教徒になった④。熊本洋学校は、その生徒が中心となって組織されたキリスト教徒のグループ、熊本バンドで知られているが、赤峰がそこに関わっていたかどうかまでの明らかではない⑤。
 その後、赤峰は熊本洋学校から同志社英学校に入学した。同志社に在学していた1878年、赤峰は夏季伝道で今治に派遣された⑥。そして、1880年赤峰は米国に渡った⑦。米国での行跡は、断片的であるが、加州々立大学で法律を学んだこと⑧やサンフランシスコで5年間滞在していたこと⑨が確かめられる。ところが、赤峰は病気のため、途中で帰国することになり、1886年には実学会英学校に勤めていた。その後、朝鮮に渡り朝鮮語を学習していたことが確認できる⑩。朝鮮語ができるとのことで、日清戦争の際には、通訳官として第一軍に付いて、朝鮮に渡り中国の九連城まで行った⑪。中国から帰ってきた赤峰は、英語や朝鮮語の教育に携わった。また、1902年には熊本県代議士選挙に出馬したことも確かめられるが⑫、当選はできなかったと推測される⑬。管見に及んだ限りであるが、その後の赤峰の行跡は、1915年に神戸英学院に院長として勤めていたこと⑭と、1918年に寺内正毅宛に手紙を出したことが確認できる⑮。そして、これらの活動以外にも、1893年創刊の『新文学』の主筆を勤めたことや、その前後何れかの時期に『新潟新聞』の記者として活動していたことが確かめられる⑯。
 以上、赤峰の履歴について述べたが、彼は語学をはじめ、政治、教育、宗教、言論など多方面にわたり活動していたと評価できる。また、米国留学をはじめ、朝鮮、中国にも渡ったことがあり、少なくない海外経験も持っている人でもあった。次節では、赤峰が『対話』を著述するに至った経緯について検討するが、それに関連して彼の履歴がどのように作用していたのかについても解明する。

(2)『日韓英三国対話』の著述経緯

 『対話』は1892年6月に出版された。赤峰は、1885年に米国から帰国し、1886年に実学会英学校に勤めていたので、1886年から1892年までの間一時期朝鮮に渡り、朝鮮語を学んでいたと考えられる。なぜ、高峰は朝鮮語を学ぼうとしていたのかについて詳しい事情は明らかではないが、『対話』の著述経緯を把握しながら、それについても推察する。
 まず、赤峰が『対話』を著わした理由について検討したい。その答えは、序文に詳しく示されている。それによると、赤峰は「日韓両国人民ニ其隣国ノ詞ト英語トヲ容易ク学ビ得セシメンガ為ナリ」⑰という目的で『対話』を書いたことがわかる。すなわち、『対話』は日本人と朝鮮人を対象とし、彼らにお互いの言語と英語を学ばせるために書かれたものである。さらに「日韓両国ヲ見物セン為メ、或ハ永住ノ目的ヲ以テ来ベキ、英米人其他西洋人モ亦此書ニ依テ、益ヲ得ル事多カルベシ(*傍点は引用者)」とも述べ、『対話』は西洋の人々にも役に立つ書籍であることを強調している。周知のごとく、日本は1854年に日米和親条約で、朝鮮は1876年に日朝修好条規で開港してから、次々と西洋諸国とも条約を締結していたため、西洋から日本や朝鮮に渡ってくる人々があらわれはじめていた。そこで、赤峰はイギリスや米国など西洋諸国の人々も『対話』の読者として設定していたと考えられる。要するに、赤峰は、日本人、朝鮮人、西洋人が、日本語、朝鮮語、英語を分かりやすく勉強できるように『対話』を書いたのである。
 また、序文によると、『対話』は会話のテキストとして作られたものである。赤峰は、「真正ナル会話書ノ体裁ヲ成シタル者アラズ」と述べ、望ましい会話の学習書がないことを指摘した。そして、「隣国ノ好ト貿易ノ隆盛トヲ補助スルニ足ラズ」と現状を批判した。そのため、西洋の関連書籍を参考して簡単かつ容易な文句を用いて会話中心の学習書を作ったと著述の経緯を説明した。その叙述から赤峰が『対話』を著述した実際の理由が推察される。それは、「隣国ノ好ト貿易」であり、先行研究においても指摘されている交隣・貿易が『対話』を書いた主な理由である。
 ところが、『対話』は赤峰一人の力で完成されたものではない。赤峰は、米国留学の経験を持っており、英語や日本語は主に赤峰が携わっていたとしても、韓国語までは厳しかったと考える。それに関して、序文には「朝鮮語ハ李重元玄采二老兄ノ補助ヲ得テ」と述べられており、韓国語に関しては李重元と玄采、二人の協力を得て執筆したことがわかる。
そこで、李と玄はどのようなものであろうか。李と玄、二人は朝鮮の官僚であったが、赤峰が朝鮮に滞留していた思われる1886年から1892年までの間、李と玄の履歴を確認してみると、まず李は1883年に統理衛門に入り、英語を修学した後、1890年に仁川海関で通訳を担当していた⑱。また、1892年には外交事務をつかさどる統理衛門の主事に任命され、同年に釜山港の税関事務幹事に任された。次に玄は、1873年に官僚登用試験である科挙の訳科に合格した人物で、1892年に釜山港の監理署(開港場の外交通商業務と居留民関係業務を担当)で翻訳官として勤めていた。二入の履歴によれば、李と玄、二人とも外国語ができる人物で、外交と通商に関わる業務を担当していたものである。要するに、『対話』の朝鮮語に関する部分は、外交と通商に携わっていた役人の李と玄から協力を得て完成したのである。
 詳しい内容は後述するが、『対話』は紙面が上中下の3つに区分され、真ん中のところは最も広く、そこを韓国語が占めている。日・朝・英、3言語対照学習書と言われているが、構成だけからいると、韓国語が中心だとも言え、先行研究では朝鮮語学習書で分類されることもある。ということから、『対話』で韓国語が大きい比重を占めているが、そこに関わるのが、赤峰だけでなく、朝鮮の官僚で外交と通商に携わっていた李と玄であることに注目したい。赤峰が『対話』を著述するに至り、必要だと思ったのは、朝鮮人で外国語ができる外交と通商の専門家であったと考える。そこからも、交隣・貿易という『対話』を書いた主な理由がわかる。
 ところが、先行研究によると、日清戦争以前の朝鮮語学習書は主に釜山草梁にある語学所の教官や学生が書いたと述べられている⑲。釜山草梁にある語学所というのは、1873年に明治政府が釜山に設置した草梁館語学所である。同所は、1871年から1873年までに対馬の厳原に位置していた韓語学所を釜山に移して、改称したところである。1880年に官立京外国語学校に朝鮮語学科が設置されることで、草梁館語学所は廃止されるが、その前までには外交業務に関わる韓国語通訳の養成を担当していた⑳。ところが、赤峰は草梁館語学所との関連性は確認できておらず、また李や玄もその関わって痕跡は確かめられない。すなわち、『対話』は既存の朝鮮語学習書と異なるものだと考えられる。
 『対話』の著述経緯は、序文から確認できる。そこには、交隣・貿易という目的があった。しかし、『対話』は朝鮮語を学習するために使われていた既存の学習とは同じではなかった。それについて、日朝両国が開港し、人々の往来が頻繁に行われるようになった両国の社会的変化がとりあげられる。赤峰は、熊本洋学校と同支社英学校で語学を学び、米国まで渡って長い年月を通じて外国語を学習していた。赤峰は、開港後、展開していた諸変化によってあらわれた人物であり、その人物によって書かれたものが『対話』である。したがって、日本語、朝鮮語、英語という3つの言語の学習書、つまり多言語学習書が刊行されたのである。また、海外経験を持っている赤峰は、外国語を学習する際、会話の重要性や実用性を認識していたため、会話中心の『対話』が刊行されたと考える。以上のことから、日本と朝鮮、各々が開港し、外国語の学習も展開していたが、『対話』はその展開による変化からのものとして位置付けられるのである。

 注

①『対話』を「日本で最初に刊行された日・朝・英、3言語対照学習書」だと評価し、検討した李は、「著者は、熊本出身の新聞記者であった赤峰瀬一郎。著者に関する詳細な伝記はないが、明治年間において米国専門家として活躍し、1893年に創刊された『新文学』の主筆を担当した人物として知られている」と紹介するにことにとまっている。はじめに注③、105頁。
②郷土文化研究所編『熊本県史料集成 第12集 明治の熊本』(日本談義社、1957)、99頁。
③文部省総務局『日本教育史資料』3(1890)、219~223頁。
④三井久著・竹中正夫編『近代日本の青年群像 熊本ハンド物語』(日本YMCA同盟出版部、1980)、198~200頁。
⑤熊本バンドの奉教趣意書に携わったと言われている35名のなかに赤峰は含まれていない。ただ、熊本洋学校の出身であること、ジェーンズより受洗したこと、同志社英学校に進学したこと、伝道に関わったことなどの諸状況から察すると、無関係ではなかったと推測される。
⑥注④、225~226頁。
⑦赤峰瀬一郎『米国今不審議』(実学会英学校、1886)、11頁。『米国今不審議』は、赤峰が米国での見聞をもとにして書いた本である。その他にも米国の政治や米国のキリスト教について紹介した『米国政教之内幕』(実学会英学校、1887)がある。
⑧手塚竜磨『英学史の周辺』(吾妻書房、1968)、427頁。
⑨赤峰瀬一郎『米国今不審議』(実学会英学校、1886)、145頁。
⑩注⑧と同じ。
⑪『東京朝日新聞』(1894年11月29日)。
⑫『団団珍聞』(1902年6月21日)。
⑬熊本県編『熊本県史 近代編2』(熊本県、1962)、49~50頁。
⑭桜井良樹『立憲同志会資料集』第4巻(柏書房、1991)、24頁。
⑮寺内正毅関係文書研究会『寺内正毅関係文書』1(東京大学出版会、2019)、84~85頁。
⑯宮武外骨・西田長寿『明治大正言論資料20 明治新聞雑誌関係者略伝』(みすず書房、1985)、2頁。
⑰はじめに注②、1頁。以下、『対話』の内容を引用する際は注を省略する。
⑱官員履歴には記録されていないが、旧暦の1890年1月に英語学員李重元を仁川海関に派遣するとの内容の訓令を督弁統理交渉通商事務が署理総税務司に出したことから、期間までは詳しくないが、旧暦の1890年1月から一時期李は仁川海関で通訳担当していたと推測される。「関飭 光緒十六年十一月二十九日」『庚寅 明治二十三年 開国四百九十九年 総関公文 第四』(韓国国史編纂委員会 韓国史データベース:https://db.history.go.kr:443/id/mk_073_0040_0810;2024年3月28日閲覧・確認)。
⑲はじめに注⑪、74~75頁。
⑳キムウビン『近世近代初期日朝関係における朝鮮語通訳官「通詞」』(一橋大学博士学位論文、2016)、113~120頁。

2『日韓英三国対話』の内容

 『対話』は全2冊の2部構成で、第1部は「対話」、第2部は「雑項、単語、対話」となっている。2冊とも会話中心の会話テキストあるが、第1部は状況別の会話が、第2部はテーマごとに単語が載せられ、続いてその単語を活用している会話が掲載されている。単語は日本語と韓国語だけで、英語の単語は外されているが、会話のところには英語も載せている。【表1】は『対話』の目次を示したものであるが、大体の内容が推察できる。また、第1部には、自序や「日韓言語之関係」が掲載されているが、「日韓言語之関係」は、日本語と韓国語の系統について論じたものである。また、第2部には「第1章 諺文綴字」、「第26章 動詞」などの文法的な内容が掲載されている。



 上述したが、メインとなる会話の部分は、【図1】のように紙面が上中下の3つに区分され、真ん中に韓国語の会話とその読みがカタカナで書かれている。上段には補足説明があり、下段には韓国語の会話に対応している英語と日本語の会話が載せられ、各々その読みがカタカナで書き込まれている。

図1

 ここでは、『対話』のなかでも会話の内容を中心とし、会話が行われている状況や場所、また話者に注目してその内容を検討する。

(1)『日韓英三国対話』における会話の状況と場所

 目次を示した【表1】を見ると、どのような状況で『対話』の内容が活用できるのかがうかがえる。とりわけ、第1部の目次には、対話が行われている場所や状況が詳しく示されており、それによると、商店、家内、港、病院などで活用できることがわかる。その中から、いつくかの例を取りあげて具体的な内容を検討する。
 【図1】は、「第六章 商店ニテ又ハ旅行スル時ニテ起ルベキ談話」の一部である。その内容は、物の値段を聞き、それに答えるもので、商店で使う基本的な表現である。また、【図2】は「第8章 久シブリニ友人ニ逢フテノ談話」の一部であるが、その内容は久しぶり会った知人関係で行われるような挨拶の文章である。そのように『対話』は、特殊な状況より、日常生活のなかで行われているような会話でその内容が構成されており、そのような内容を学ばせる学習書である。

図2

 ところが、第2部の「第20章 武器、戦陣」が注意を引き付ける。その内容を詳しく見てみると、武器と戦争に関連している単語が掲載られ、その後対話のところには、【図3-1】【図3-2】のように戦争の際に使われるような表現が載せられている。しかし、その内容は諸状況のなかで一つの事例にすぎないと考え、開戦を念頭に置いて掲載した内容であるとは考え難い。


図3-1


図3-2

 また、『対話』第1部の「第15章 朝鮮内地ヘ商法ノ為ニ旅行スル時ノ談話」には、米、麦、大豆などの穀物売買に関連する内容が載せられている【図4】。それは興味深いところであるが、なぜかというと1889年の「防穀令」を思い出させるからである。上述したが、『対話』は1892年に刊行され、また赤峰は1886年から1892年までの間一時期朝鮮に渡っていたと推定される。その時期は米や大豆などが日本へ大量に輸出されていた時期で、それを防ぐため、1889年には「防穀令」が実施され、それがきっかけで「防穀令事件」が発生する。そのように『対話』で「私ハ米ヲ買ニ来マシタ」や「大豆ガ沢山御座升」などの表現から当時貿易の特徴が思い浮かぶ。


図4

 そして、『対話』に実際の内容が掲載されているとは限らない。【図5】は第1部の「第18章 港ニ着キタル時ニ起ルベキ談話」の一部であるが、そこにはイギリス領事に関する内容が載せられている。『対話』の会話が行われている場所は朝鮮であり、また赤峰が朝鮮に滞在していたと推測されている期間は、1886年から1892年までの一時期であるので、その時期中の在朝英国総領事は、ベイバー(Colborne Baber、1885~1887)、ウォッターズ(Thomas Watters、1887~1888)、フォード(C. M Ford、1888~1889)、ヒリヤー(Walter C. Hillier、1889~1896)である①。すなわち、ハンティンドンという領事は存在していなかったのである。さらに、第1部の「第17章 来客ニ写真ナドヲ見スル時ノ談話」には、日本の皇太子の写真を見ながら、対話をする内容が掲載されており、皇太子の歳を15才と述べている。その皇太子というものは、時期的に大正天皇になる嘉仁親王のことであると考える。嘉仁親王の立太子の礼が行われたのは、満10才の1889年であるため、『対話』で15才と述べているところも実際の事実から離れていることがわかる。要するに、『対話』は日本語、韓国語、英語の会話書であっても、情報伝達の機能は欠けていたと言える。


図5

(2)『日韓英三国対話』の話者

 既に説明したように『対話』の内容は、商店、家内、港、病院などを背景としている。そして、その会話の話者は、商人、官吏、留学生などである。そこで、特徴として捉えられるのは、男性中心の会話だということである。第1部の第9章と16章には、家のなかでの会話も掲載されており、その内容が少なくない比重を占めている。しかし、女性が話者として登場している様子は見えない。祖母、母親などの単語は載せられており、また第1部の「第23章 人事ニ関シテノ談話」に「彼女ノ人ハ巫デスヨ」という文章が掲載されているが、言葉を交わす場面で女性の話者は登場していない。それは、女性との対話が想定されていないことを前提していると考えられる。儒教の影響を受けた家父長的家制が強い朝鮮において、女性が外国人と言葉を交わすとのことはあり得ないと考えていたのであろうか。
 反面、子供は話者としてよく登場する。第1部の第1、5、22章は話者の一人が子供である。それは、なぜなのか。その手がかりは第1部の第22章に載せられている「私ノ名ハメーリーデス」という表現から窺える。赤峰は欧米各国の会話書も参考して『対話』を書いたと序文に述べているが、欧米の会話書の影響ではないかと推測する。赤峰は、欧米の会話書を参考しながらも、アジア固有の家父長的家制も勘案した上、『対話』を著述したと推測する。

 注

①在朝英国総領事について、韓承勲『19世紀後半朝鮮の対英政策に関する研究(1874~1895):朝鮮の均衡政策と英国の干渉政策の関係定立と亀裂』(韓国:高麗大学校大学院韓国史学科博士学位論文、2015)を参照。

3『日韓英三国対話』の歴史的意味

 先行研究として取りあげた成の研究では、日本国内において征韓論が台頭し、朝鮮半島と大陸へ進出するため、その準備作業として専門の通訳官を養成する草梁館韓語学所が設置されたと論じられている。また、『対話』をはじめ、『日韓善隣通語』、『日韓通話』など、日清戦争以前に刊行された朝鮮語会話書は外交、貿易、通商に従事している人々を対象としたものであると評価した①。明治期の朝鮮語教育と学習は政治的、社会的変化に深く関わっていたと指摘しながら、韓国語教育機関と朝鮮語学習書を分けて把握している。ところが、日清戦争以前に刊行されたいうことで、『対話』の性格を規定しても良いのかいう疑問が生じる。そこで、本章では『対話』とその著者である赤峰を通じて、『対話』が持つ歴史的意味を再検討したい。
 まず、『対話』に掲載されている「日韓言語之関係」についてみてみたい。「日韓言語之関係」は、日本語と韓国語の系統について論じ、日本語、韓国語、英語の表記や発音などの文法的な内容について説明しているものである。現在、通説として認められていないが、当時には支持を得ていた「ウラル・アルタイ族」説を取りあげ、赤峰は日本語と韓国語がそのなかに含まれていることや、そこから両言語の関係を論じろうとしている。
 赤峰は「日韓言語之関係」なかで以下のようなことを述べている。
 

【史料1】

我ガ大和民族ハ、最モ恐惶テ尊敬ケル天孫之旗下ニ随従シテ、日本諸島ヲ専領セシ、一大支族之血統ヲ受ケタル人民ニシテ、最モ進取之気象ニ富ミタル強之者也
然者、大和民族ハ此一列帯ナル種族中之長者ナレバ、其言語ト云ヒ文物ト云ヒ、皆他支族等之上ニ有ル事数等ナルモ又宜ナル哉
然リ而シテ朝鮮ハ我ガ最近之隣国ニシテ、大坂港ヨリハ二昼夜以上三昼夜未満ニシテ、彼ノ有名ナル釜山浦ニ達スルヲ得、鎮西之咽喉タル馬関港ヨリハ、海上僅ニ七八十里ニシテ、対州之極端ヨリハ僅僅十八里ニ過ザル也、然而巳ナラズ、朝鮮民族ハ我ガ最近之親族也(*傍点・傍線は引用者)
 以上の内容から、まず赤峰は、「天孫降臨」思想の影響を受けていることがわかる。そして、傍線部の「大和民族ハ此一列帯ナル種族中之長者」というのは、アジアにおいて日本が指導的立場にあることを述べていると考える。また、赤峰は日本と朝鮮との距離が近いことや、親密な関係であることを強調している。しかし、赤峰が示している「一列帯ナル種族中之長者」という意識は、文明開化を成し遂げた日本が清国と朝鮮を誘導して欧米列強のアジア侵略を防ぐとの民権派の意識と類似していると考えられ、そのあとには「進取」を目指す日本の権勢を拡大するという思想にも繋がっていくものである②。つまり、『対話』が日常的な会話を中心としている会話書であり、日清戦争以前に書かれたものであっても、「日韓言語之関係」からは相異なる認識が窺える。

【史料2】

謹啓仕候。種々の方面より探知仕候所に依れば、政府は西比利亜に出兵を今にも為さんとする御用意有之やに承り申候。
右は世界の大勢に反したる無謀も甚しき亡国策にして、是非とも忍耐停止致度く存候。〔中略〕但し東亜モンロー政策を実行せんが為めに、此際公然此主義を声明して三個師団位をハルピン地方迄進めて、反過激派人民に一大勢援を与て健全なる西比利亜政府若くは露帝国の建設を援助するは最も望ましき事に御座候。此方針以上に出て徒に西比利亜に出兵するは、亡国策なりと断言せざるを得ず③。〔後略〕(*傍線は引用者)
 以上の書簡は、1918年7月10日に赤峰が総理寺内正毅に送ったものである。その内容は、シベリア出兵を実施しようとしていた政府の動きに対して反対するものである。赤峰は、シベリア出兵は亡国策であり、「三個師団位をハルピン地方迄進めて、反過激派人民に一大勢援を与て健全なる西比利亜政府若くは露帝国の建設を援助する」ことが望ましいと主張している。時期的にはすでに朝鮮が植民地になっている時期なので、『対話』と書簡との間に赤峰の意識がどのように変化してきたかは詳しくは把握しきれない。ただ、「三個師団位をハルピン地方迄進めて」というのは、1905年山県有朋の主権線と利益線の論理を連想させ、結論的には「進取」を目指す日本の権勢を拡大する論理に繋がるとの予想と合致する結末に辿り着いていることがわかる。
 そこで、日清戦争以前に刊行されたいうことで、『対話』の性格を規定しても良いのかいう疑問については、その分析方法は厳しいと答えられる。なぜかというと、その分析には赤峰という著者に対する理解が欠けていたからである。『対話』は、韓国語がメインとなっているが、日本語・英語も含めて書かれた多言語学習である。そのため、多言語学習書という別の分類で分析する必要があると考える。そもそも『対話』が最初の多言語学習書として刊行されたのも、米国と朝鮮での経験を持っている赤峰という存在があったからこそ可能であったと言える。

 また、『対話』は、1882年壬午軍乱、1884年甲申政変の後、それらの事件による影響が及んでいる時期に書かれたものである。壬午軍乱と甲申政変により、朝鮮に対する清の干渉は強がっていた反面、日本の影響は弱化していた。そのかわり、貿易のような経済的側面からの日本の影響が強がっていた時期である。そのため、大量の穀物が輸出で日本に流されてしまった結果、防穀令が出され、事件まで拡大されることになる。要する、そのような時代背景も『対話』に影響されていると考え、日清戦争のみ強調するのは十分でないと考える。

 注

①はじめに注⑪、69・73~75頁。
②小川原正道「征韓と脱亜」(山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義 明治篇Ⅰ』筑摩書房、2022)、130~131頁。
③1章の注⑮と同じ。

おわりに

 『対話』は、日本で最初に刊行された日・朝・英、3言語対照学習書として評価されている。それを書いた赤峰は、米国留学をはじめ、朝鮮、中国にも渡ったことがある海外での経験を持っている人物で、語学をはじめ、政治、教育、宗教、言論など多方面にわたって活躍していた。そのような履歴を持っている赤峰は、外交や通商業務に携わっていた朝鮮の官僚から協力を得、また欧米の会話書を参考した上で、『対話』を著述した。その内容は、日常的に使われている生活会話が多い。また、その話者は主に男性であるが、子供も登場している。それは、当時アジア固有の家父長的家制の影響と、欧米の会話書を参考した痕跡であると推察する。そして、『対話』は日清戦争以前に刊行されたものとして、その歴史的意味が与えられたが、赤峰個人の思想や、壬午軍乱と甲申政変による政治的、外交的、経済的な変化とも無関係ではないことにその歴史的意味があると考える。しかし、今回の分析では、他の多言語学習書との比較や対照などの検討が行われていなかったが、それは今後の課題にしたい。
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張賢雅「明治期における多言語学習について ― 赤峰瀬一郎『日韓英三国対話』(1892)を中心に」『文化財多言語化研究報告5』 - 表1
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NAID :
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時代 : 明治
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学問種別 : その他
テーマ : 資料紹介 その他
キーワード日 : 明治期 多言語学習 赤峰瀬一郎(あかみねせいちろう) 『日韓英三国対話』 貿易
キーワード英 : Meiji period foreign language learning Akamine Seichiro Nichi kan ei sangoku taiwa trade
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総覧登録日 : 2025-03-31
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