10th-Century Volcanic Eruption of Towada and its Impact on Local Community Dynamics
十和田10 世紀噴火と地域社会の動態
MARUYAMA Koji
( 丸山 浩治 )
結論 ―十和田10世紀噴火に対する社会の反応―
ここまで述べてきた不動産・動産それぞれの「律令的」「在地的」類別結果を合わせ、十和田10世紀噴火後の人的動態と噴火イベントとのかかわりを考える。
4種の組み合わせから、国家の影響度を看取することができる(表3)。律令的建物を主体とし、ロクロ長胴甕が半数以上の比率を占める場合が最も国家の影響度が強く、在地的建物と非ロクロ長胴甕を主体とし、非ロクロ土師器甕に口縁短外反型を含まない場合が最も影響度が低いといえる。ここで一つ注意したいのが、在地的建物とロクロ長胴甕を主体とする組み合わせは存在しないという点である。建物様式にも増して、ロクロ長胴甕は国家との関係性が強い道具ということがいえる。反対に、伝統的な非ロクロ長胴甕を保持し、Ⅳ期段階では口縁短外反型甕がみられない地域は総じて在地的建物が主体である。換言すれば、口縁短外反型甕は律令的建物と関連性が強いといえる。この甕の出現地域は国家域との境界に近い⑧北上川上流域・⑨安比川流域・㉓米代川上~中流域の一帯であり、国家側との接触が比較的多い人々が製作した土器と考えられる。
以下、この組み合わせを基にして様相を述べていく。⑨安比川流域および㉓米代川上~中流域は十和田噴火後にロクロ長胴甕が急激に増加することから、集落増は国家側からの移住によるものといえる。そのいっぽうで、⑨安比川流域では噴火後に在地的建物が作られるなど伝統的様相をもつ「蝦夷」が存在していることもわかっており、特に地域北端にあたる安比川と馬淵川との合流点付近は⑪馬淵川中流域南部・十文字川流域からの避難・移住先になったと考えられる。同じく、建物様相から⑩馬淵川上流域、⑬北上山地北部、⑮久慈地域、⑯八戸平野周辺も移住先となった可能性がある。
⑱上北地域中部の竪穴建物は、噴火後に律令的建物主体へと変化する。同時に、口縁短外反型甕も出現する。噴火前まで過疎であった当地域の沿岸部へ移住した人々の出自は、⑧・⑨・㉓地域一帯と考えられる。⑲上北地域北部についても同様である。いっぽうで、⑱上北地域中部では噴火後に構築された在地的建物も存在する。地理的に考えても、隣接する⑰上北地域南部から避難した人々が相当数いたと思われる。また、⑰地域からの避難者は、南に隣接し伝統的な在地集団が在った⑯八戸平野周辺へも移ったであろう。その⑯地域でも、口縁短外反型甕が確認されるようになる。この甕を有する人々が⑨安比川流域から東の⑬北上山地北部へ、もしくは⑯八戸平野周辺へ北上し、さらに上北地域へと北上していったと考えられる。なお上述のとおり、⑨安比川流域と㉓米代川上~中流域には国家側からの移住行動があり、これと連関した、口縁短外反型甕を用いる在地集団の避難・移住行動の結果と考えられる。どちらの行動が先か、それに言及することは叶わないが、⑨安比川流域における共存状態をみれば、国家側が強制的に他所へ排除したとは思えない。火山災害に対して自主的に避難を実施し、被害の少ない新天地を求めたと考えられる。
これに対して、わざわざ被害の大きい⑨・㉓両地域へ移住したことの背景には、国家の強制力が働いていたと考えるのが妥当である。㉓米代川上~中流域には噴火前の段階から胡桃館遺跡のような施設が存在し、国家の進出があった。これは⑨安比川流域も同じで、噴火前すでに八葉山天台寺のエリアに礎石建物が建設され(浄法寺町教育委員会1981・1983)、国家による介入が始まっていた。噴火イベントを機に両河川流域への介入をさらに深め、国家域の北進を図ろうとした、そのための移住政策だったと考えられる。
被害度に合わせた避難が図られ、移動に関してある程度の自由度を持っていた「蝦夷」社会と、甚大な被害が及んだ地域へも強制的な移入を進めた国家。この在り方は、社会の性格差が災害対応に表出した事例といえよう。そして、被害区分エリアBおよびCの中で起こったこの異なる動きは、徳井(前掲)が示したareaⅢの定義を追認する結果ともなった。
ここまで述べてきた不動産・動産それぞれの「律令的」「在地的」類別結果を合わせ、十和田10世紀噴火後の人的動態と噴火イベントとのかかわりを考える。
4種の組み合わせから、国家の影響度を看取することができる(表3)。律令的建物を主体とし、ロクロ長胴甕が半数以上の比率を占める場合が最も国家の影響度が強く、在地的建物と非ロクロ長胴甕を主体とし、非ロクロ土師器甕に口縁短外反型を含まない場合が最も影響度が低いといえる。ここで一つ注意したいのが、在地的建物とロクロ長胴甕を主体とする組み合わせは存在しないという点である。建物様式にも増して、ロクロ長胴甕は国家との関係性が強い道具ということがいえる。反対に、伝統的な非ロクロ長胴甕を保持し、Ⅳ期段階では口縁短外反型甕がみられない地域は総じて在地的建物が主体である。換言すれば、口縁短外反型甕は律令的建物と関連性が強いといえる。この甕の出現地域は国家域との境界に近い⑧北上川上流域・⑨安比川流域・㉓米代川上~中流域の一帯であり、国家側との接触が比較的多い人々が製作した土器と考えられる。
以下、この組み合わせを基にして様相を述べていく。⑨安比川流域および㉓米代川上~中流域は十和田噴火後にロクロ長胴甕が急激に増加することから、集落増は国家側からの移住によるものといえる。そのいっぽうで、⑨安比川流域では噴火後に在地的建物が作られるなど伝統的様相をもつ「蝦夷」が存在していることもわかっており、特に地域北端にあたる安比川と馬淵川との合流点付近は⑪馬淵川中流域南部・十文字川流域からの避難・移住先になったと考えられる。同じく、建物様相から⑩馬淵川上流域、⑬北上山地北部、⑮久慈地域、⑯八戸平野周辺も移住先となった可能性がある。
⑱上北地域中部の竪穴建物は、噴火後に律令的建物主体へと変化する。同時に、口縁短外反型甕も出現する。噴火前まで過疎であった当地域の沿岸部へ移住した人々の出自は、⑧・⑨・㉓地域一帯と考えられる。⑲上北地域北部についても同様である。いっぽうで、⑱上北地域中部では噴火後に構築された在地的建物も存在する。地理的に考えても、隣接する⑰上北地域南部から避難した人々が相当数いたと思われる。また、⑰地域からの避難者は、南に隣接し伝統的な在地集団が在った⑯八戸平野周辺へも移ったであろう。その⑯地域でも、口縁短外反型甕が確認されるようになる。この甕を有する人々が⑨安比川流域から東の⑬北上山地北部へ、もしくは⑯八戸平野周辺へ北上し、さらに上北地域へと北上していったと考えられる。なお上述のとおり、⑨安比川流域と㉓米代川上~中流域には国家側からの移住行動があり、これと連関した、口縁短外反型甕を用いる在地集団の避難・移住行動の結果と考えられる。どちらの行動が先か、それに言及することは叶わないが、⑨安比川流域における共存状態をみれば、国家側が強制的に他所へ排除したとは思えない。火山災害に対して自主的に避難を実施し、被害の少ない新天地を求めたと考えられる。
これに対して、わざわざ被害の大きい⑨・㉓両地域へ移住したことの背景には、国家の強制力が働いていたと考えるのが妥当である。㉓米代川上~中流域には噴火前の段階から胡桃館遺跡のような施設が存在し、国家の進出があった。これは⑨安比川流域も同じで、噴火前すでに八葉山天台寺のエリアに礎石建物が建設され(浄法寺町教育委員会1981・1983)、国家による介入が始まっていた。噴火イベントを機に両河川流域への介入をさらに深め、国家域の北進を図ろうとした、そのための移住政策だったと考えられる。
被害度に合わせた避難が図られ、移動に関してある程度の自由度を持っていた「蝦夷」社会と、甚大な被害が及んだ地域へも強制的な移入を進めた国家。この在り方は、社会の性格差が災害対応に表出した事例といえよう。そして、被害区分エリアBおよびCの中で起こったこの異なる動きは、徳井(前掲)が示したareaⅢの定義を追認する結果ともなった。
NAID :
Prefecture :
Aomori Prefecture
Iwate Prefecture
Miyagi Prefecture
Akita Prefecture
Yamagata Prefecture
Fukushima Prefecture
Niigata Prefecture
Age
平安
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Created Date :
2022-09-26
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