総括
FUJIMURA Sho
( 藤村 翔 )
富士市久沢に所在する沢東A 遺跡は、富士山南麓を流れる潤井川と凡夫川が合流する地点の東岸、大淵扇状地西側の緩やかな丘陵上の標高20 ~ 40m に位置する集落遺跡である。これまでの調査では古墳時代中期後半から後期、飛鳥時代にかけて営まれた多数の竪穴建物や祭祀遺構が検出されており、旧富士川河口部(潤井川下流域)東岸における拠点的な集落であったと考えられている。
第28 次調査地点の調査では、古墳7 基、溝状遺構47 条、炉1 基、土坑28 基、ピット14基、不明遺構12 基を検出し、主として弥生時代後期から古墳時代、平安時代から中世の遺物が出土した。弥生時代後期から古墳時代前期は、当遺跡では希薄とみられていた時期であるが、今回の調査では当該期に帰属する多数の土器片が、畝間溝や区画溝の可能性のある溝などに伴い出土した。今回の調査区一帯は、集落に近接する生産域(耕作地)であった可能性が高い。
古墳時代後期前半の遺構としては、当遺跡では初となる、7 基以上の小規模な円墳や土坑墓からなる古墳群が発見された。周溝のあるものはいずれも円墳で互いに近接して立地し、全体的に小規模ながらも大小の古墳で構成される点に特色がある。各古墳の周溝出土遺物の年代観から、古墳時代後期前半(TK47 ~ MT15 型式併行期)を中心に築かれた円墳群とみられ、古式群集墳の新例として評価できる。駿河東部・伊豆地域の古式群集墳の分布からは、各小地域内において新興の中小規模首長墳と古式群集墳による階層秩序が看取できる。5世紀末から6世紀前半頃の駿河東部・伊豆北部地域では、古式群集墳の被葬者集団が、軍事面や地域経営の実務面で新興首長層を補佐する体制が成立していたとみてよい。
平安時代末から中世も当遺跡では実態が不明瞭な時期であるが、今回の調査では底部糸切未調整の土師器坏やかわらけ、常滑産陶器や龍泉窯系青磁碗といった遺物を検出することができた。これらの遺物は、交通の要衝でもある富士川河口部に展開した中世集落の実態に迫る資料として評価できる可能性がある。
第28 次調査地点の調査では、古墳7 基、溝状遺構47 条、炉1 基、土坑28 基、ピット14基、不明遺構12 基を検出し、主として弥生時代後期から古墳時代、平安時代から中世の遺物が出土した。弥生時代後期から古墳時代前期は、当遺跡では希薄とみられていた時期であるが、今回の調査では当該期に帰属する多数の土器片が、畝間溝や区画溝の可能性のある溝などに伴い出土した。今回の調査区一帯は、集落に近接する生産域(耕作地)であった可能性が高い。
古墳時代後期前半の遺構としては、当遺跡では初となる、7 基以上の小規模な円墳や土坑墓からなる古墳群が発見された。周溝のあるものはいずれも円墳で互いに近接して立地し、全体的に小規模ながらも大小の古墳で構成される点に特色がある。各古墳の周溝出土遺物の年代観から、古墳時代後期前半(TK47 ~ MT15 型式併行期)を中心に築かれた円墳群とみられ、古式群集墳の新例として評価できる。駿河東部・伊豆地域の古式群集墳の分布からは、各小地域内において新興の中小規模首長墳と古式群集墳による階層秩序が看取できる。5世紀末から6世紀前半頃の駿河東部・伊豆北部地域では、古式群集墳の被葬者集団が、軍事面や地域経営の実務面で新興首長層を補佐する体制が成立していたとみてよい。
平安時代末から中世も当遺跡では実態が不明瞭な時期であるが、今回の調査では底部糸切未調整の土師器坏やかわらけ、常滑産陶器や龍泉窯系青磁碗といった遺物を検出することができた。これらの遺物は、交通の要衝でもある富士川河口部に展開した中世集落の実態に迫る資料として評価できる可能性がある。