デジタル踏査のための、現在と過去の調査データのジオリファレンス
Georeferencing current and past archaeological survey data for digital survey
しかし、複数次にわたる平野部の調査を除き、調査区外に伸びる遺構群と合わせた評価が成されていないことが多い。この状況は、①発掘調査報告書にある図面を、②調査区外に遺る遺構群を示す高精度な地形表現図に、③落とし込むことができない、という3つの課題が単一もしくは複合した状態で横たわっていると考えられる。
本稿では、これらの3つの課題をQGISと、高精度DEMの活用によって解決する方策を具体的な調査事例を用いて提示する。
1 はじめに
本稿の射程は、発掘調査データと、それら以外の調査成果(分布調査や現地表面調査)をつなげることである。発掘報告書が刊行された埋蔵文化財包蔵地にあっては、発掘調査によって遺物はもとより、遺構についても詳細に内容が図面として把握されている。
しかし、複数次にわたる平野部の調査を除き、調査区外に伸びる遺構群と合わせた総合的な評価が成されていないことが多い。この状況には、①発掘調査報告書にある図面を、②調査区外に遺る遺構群を示す高精度な地形表現図に、③落とし込むことができない、という3つの課題が単一もしくは複合した状態で横たわっていると考えられる。
本稿では、これらの3つの課題をQGISと、高精度DEMの活用によって解決する方策を具体的な事例を用いて提示する。
2.調査成果と、QGISへのジオリファレンス
(1)勝浦鉱山跡の発掘調査
筆者が調査を行った勝浦鉱山跡は、多可郡多可町加美区棚釜に所在する鉱山跡である(図1)。東から西へと下降する谷の開口部に、銅鉱石の採掘跡である間歩や、採掘に伴う湧水の排出溝、採掘した銅鉱石を製錬する精錬場が設けられている。
図1 勝浦鉱山跡の位置
砂防堰堤の建設に伴って、勝浦鉱山跡の最下段に位置する精錬場等で、本発掘調査を実施した(兵庫県教委2017)。調査区は、現在も水路となっている中央部分を除き、南北2個所に設定した(図2)。北側では平面形が卵型を呈する炭焼窯を検出した。南側では、高さ約1~2mの石積を持つ複数の平坦面(以下、石積平坦面と呼称し、複数ある場合には、石積平坦面群と表記する)4基と平坦面群の間を東西に流れる幅1~2mの素掘りの水路を検出した。それぞれの平坦面群の内部では建物跡、精錬にかかる炉跡などを検出した。出土した遺物には、ボタンなど明治時代に帰属するものもあったが、肥前系陶磁器から創業年代は遅くとも幕末に遡ると考えられている(兵庫県教委2017)。
平坦面群の存する地点の反対側で谷の北側斜面となる地点で、銅精錬で使用する炭窯跡なども合わせて見つかっており、かつ、発掘調査区に隣接して間歩と考えら得る縦孔も周辺に見られることから、勝浦鉱山跡では、①原材料である銅鉱石の獲得から製品である銅そのものを生産していたことが明らかとなった(図2)。
図2 調査区(左)と検出した遺構群(右)
(2)発掘調査成果のジオリファレンス
QGISのジオリファレンス機能を用いて、遺構平面図と25cm等高線図の位置合わせを行う。
図3は、発掘調査報告書に掲載している遺構平面図と、調査当時の踏査成果を図化した平面図を遺跡立体図に位置合わせし、乗算処理をしたものである。この図から、発掘調査対象となった石積平坦群が、谷の開口部に所在し、東側に比べて開けた地点にあることがわかる。精錬施設や、精錬に必要な人員や管理する人員のための施設を設けるには、一定の面積が必要であったことが推測され、その所要を満たすために、面積を確保しやすい、利用可能な土地が確保できる谷開口部を利用したと考えられる。
図3 調査区と、調査時の踏査で発見した遺構(図中太黒線)
また、本発掘調査に際して、筆者は調査区より東側の谷部を中心に分布調査を行なった。その踏査成果には、①発掘調査区外で発見した石積平坦面群、②谷中心部を東から西へと下降する石組水路(いずれも図3内では黒太線で表記されたもの)と、③東側の谷奥部に所在する石積を伴う平坦面がある。以下、それらについて詳述する。
①調査区外の石積平坦面群
発掘調査区外の石積平坦面群は、調査対象の石積平坦面から連続するものや、その上流側(東側)に所在する。これらの石積は、いずれも算木積み等の隅角部を持たない、もしくは隅角部を形成せずに、角部分が円形の平面形を呈するものであり、城館遺跡で見られる石垣と異なった形状である。
城館遺跡、ことに石垣を伴う織豊系城郭や、いわゆる近世城郭では石垣を用いて築かれた曲輪の天端一杯まで塀や櫓などの構築物を設け、縁辺部や石垣の面に荷重がかかる構造となる。一方で、勝浦鉱山跡の石積では隅角部分が円形を呈し、荷重を逃せない構造であること、また、平坦面群のいずれにおいても、石積の縁辺部から約1mでは、発掘調査で遺構を検出しなかったことから、平坦面に伴う石積は、重量構造物を天端一杯まで構築するためではなく、銅生産にかかる施設を構築するための水平な土地を確保するために設けられたものと考えられる。
②石組み水路(図4)
石組み水路は、東西方向に伸びる谷の中央部に所在する。角礫の平らな面を揃えて2~3段積み上げ、50cm程度の高さを作っている。水路の底部にも同様の角礫を、面を揃えて並べている。数メートルおきに角礫が水路の進行方向に直行して1列に並ぶことから、構築に際して、なんらかの作業単位があったことが推測される。
水路は、上部で土砂崩れによって埋没しており、始点を見つけることはできなかった。水路の下方については、南北に2つに分かれる調査区の間の水路につながるものと考えられるが、途中に大量のズリが投棄堆積しており判然としない。
図4 石組水路
③谷最奥部の石積平坦面(図5)
発掘調査報告書作成時に使用した平面図が、発掘調査の原因となった砂防堰堤工事に伴って事業者が作成した図であるため、図3では位置を示し得ていないが、谷の最奥部(東側)で、南北方向に石積を用いて谷奥を堰き止める形で、平坦面が設けられていた。
石積みは発掘調査を行った範囲のそれよりも、幅・高さ共に大きく、立面形状は緩やかなV字状を呈し、角に当たる部分は無く、一面のみである。
この石積みによって形成される平坦面は、平面が三角形を呈し、内部は完全に平らであった。また、礎石や石材による区画の発見および遺物等の散布を確認するために、平坦面内部を踏査したが、それらのいずれもを確認することはできなかった。
図5 谷奥部の石積平坦面
3.遺跡立体図でのデジタル踏査と過去の分布調査データの突合
(1)調査成果と遺跡立体図
本発掘調査と調査時の踏査で、勝浦鉱山跡では遺跡の存する谷の東西全体に遺構群が広がっていることがわかった。ただ、開発事業に伴う測量図は、「砂防堰堤を作るための測量図面」であって、「(埋蔵)文化財の保護・把握のための測量図」ではないことから、①記載範囲が限定され、②我々が記録(把握)したい範囲や精度ではない。そのため、2(2)で述べたように、踏査成果の一部も同図内では反映できていない。そこで、兵庫県が整備公開する高精度DEMのうち、50cmメッシュ標高ラスターを用いて、当該地点の遺跡立体図を作成し、谷全域に存する遺構群を表現する(図6)。
図6 遺跡立体図で判読した遺構群
2(2)①で確認できた石積平坦面群は、調査区東側や南側に明瞭に現れている。また、南側の調査区内で検出した東西方向に伸びる素掘りの水路が、西側へ直線的に続き、調査区を分割する中央部の水路に接続していることが看取できる。
同②で確認できた石組水路は、東西方向に直線に伸び水平距離で全長約70mの延長を持っていることが看取できる。また水路の両壁は50cm程度ながらも、垂直に構築されているため、遺跡立体図では黒い影として広がっている。水路の現在の終端から考えて、調査区を横切る現用水路へとつながっているものと推定できる。
この石組水路の北側に、平面形が方形を呈する3つの平坦面が、東から西へ階段状に連続して設けられていることを看取できる。石積の有無は判断しがたいが、3つのうち最も高い東側の平坦面群では、他の石積平坦面と考えられる地点と同様に黒い影を認めることができ、石積がある可能性が高い。この平坦面群から東へ離れた斜面地にも、1つの平坦面があることが看取できる。半月状の平面形を呈している。
同③で確認した谷奥部の石積平坦面が明瞭に看取できる。分布調査の成果の通りの平面形を呈している。谷の開口部方向に向かった面には大きな黒い影を見ることができ、垂直とはいえ、やや内傾した大規模な石積があることがわかる。
上記までで、筆者が踏査し発見した遺構群の位置と形状、また遺跡立体図から判読した遺構群について、その概要を述べた。この一連の作業によって、勝浦鉱山跡が本来谷全体にわたって形成された広範な範囲を持つ遺跡であることが明らかとなった(注1)
(2)既往の調査成果との突合
勝浦鉱山跡については、1994年に刊行された『兵庫県生産遺跡調査報告4 製銅遺跡』で報告されている(兵庫県教委1994)。同報告書にかかる調査では、勝浦鉱山跡の分布調査が実施されており、勝浦鉱山跡の谷に残る遺構群について、その位置と性格が図化されている。そこで、約30年前に把握した遺構群と、発掘調査成果並びに遺跡立体図によるデジタル踏査成果を突合し、本稿での把握と過去の把握を比較する。
図7は、同報告書所収の分布踏査成果を、遺跡立体図上にジオリファレンスし、乗算したものである。原図には経緯度が表記が無く、現在の地形等を手がかりに任意で位置合わせを行ったため、東側では歪みが生じている。
図7 兵庫県教委1994所収の分布調査成果図と遺跡立体図から判読した遺構群
結論から述べると、上記(1)で確認した遺構群の大半が、約30年前の分布調査において把握されていたものであった。石積平坦面群については、調査区とその周辺及び石組み水路北側の平坦面群が把握されている。同時に石組水路も「ミゾ(疎水)」として図化されている。また、今回は筆者が踏査を行なっていないため取り上げなかったが、勝浦鉱山跡の位置する谷より南側の谷では「池状遺構」があり、遺跡立体図でも明瞭にその形状を表現することができている。
その一方で、約30年前には把握できていない遺構群があることも明らかとなった。上記(1)で述べた東側の石積平坦面と、2(2)③で述べた谷奥部の石積平坦面だ。前者については、「火薬庫址」が比較的近隣に位置するしているが、ジオリファレンスの歪みから図上では一致していない(注2)。後者については、より西側で「坑口D」と記録され、直近には炭焼き窯を示す黒丸があるものの、平坦面には言及や図化が無い。また、「神社址」とされる2つの地点についても、平坦面を遺跡立体図では把握できていない(注3)。
このように、既往の調査成果を遺跡立体図上にジオリファレンスすることで、性格はともかく、遺構群の位置について、現在時点の情報と過去の時点での情報を比較することが可能となる。地表面観察では、調査時点において、地表面に痕跡を留めるものしか観察・図化できないが、2つの時期の差分として、遺構群を判断するための材料を得ることが可能となる。
4.おわりにー過去を探り、未来を掴むー
本稿では、現在の調査成果と、過去に実施した調査成果を接続し、高精度DEMを用いた遺跡立体図上で比較した。この取り組みによって、従来、高精度の等高線図が作られても同じ位置で検討することが難しかった経緯度の無い図面について、記載された情報を活かす方法を提示した。
今後、本稿で取り扱ったような事例を集成していくことが、結果として、高精度DEMに基づくデジタル踏査手法で遺構認識の鍵となる「遺構の見え方」を洗練していくものと思われる。あくまで地表面に痕跡を留める遺跡に限られるが、様々な事例を追加し、検討を深めていきたい。
【付記】
本稿は調査担当者として発掘調査に従事していた際に、発掘調査区外の谷奥部を踏査する機会を得たことに端を発している。調査区に隣接する間歩以外にも、石垣を伴う平坦面群や石組み水路などが点在しており、銅精錬遺跡に詳しくない筆者にとって新鮮な驚きであり、発掘調査報告書になんとか反映したいと考えていた。
調査終了後に、本県教育委員会が刊行した『兵庫県生産遺跡調査報告第4冊 製銅遺跡』に、それらの遺構群が掲載されていたことを確認し、愕然とした。連続した発掘調査の慌ただしさの中で、既往調査の網羅的な検討を疎かにしていたことを痛感しただけでなく、既往の作成図面を発掘調査・試掘確認調査・分布調査に活かす方法を当時は思いつかなかった。本稿は、その後筆者自身がQGISの操作に慣れ、かつ本県で高精度DEMが整備公開されたことを受け作成した。
改めて、高精度DEMによる地形解析の威力を知るとともに、現在の分布調査の成果と既往の調査成果を疎かにせず、図上で突合する重要性を考えさせられた。過去そして現在の筆者自身の苦い経験のトレースが、本稿である。
【注】
注1銅鉱石の採掘にかかる縦坑である間歩については、それらしい円形の窪地が遺跡立体図でも表現できているものの、遺跡立体図のみでは自然地形の窪地と区別して判読することができなかったため、本文中では触れていない。
注2これについては、もし当該の石積平坦面が「火薬庫址」出会った場合には、現地踏査時の記録ミスや図化時の位置合わせミスなど原図側の問題も含んでいる。
注3「神社址」の場合には平坦面をなさず、祠のみの場合もあるので、把握できていない可能性もある。
【参考文献】
兵庫県教育委員会社会教育・文化財課 1994 『兵庫県生産遺跡調査報告4:製銅遺跡』兵庫県教育委員会
兵庫県教育委員会2017 『勝浦鉱山跡』兵庫県文化財調査報告487