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研究紀要

URL https://sitereports.nabunken.go.jp/105394
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DOI http://doi.org/10.24484/sitereports.105394
引用表記 財団法人栃木県文化振興事業団埋蔵文化財センター 1992 『研究紀要』財団法人栃木県文化振興事業団埋蔵文化財センター
財団法人栃木県文化振興事業団埋蔵文化財センター 1992 『研究紀要』
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書名 研究紀要
発行(管理)機関 (公財)とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センター - 栃木県
書名かな ケンキュウ キヨウ
副書名
巻次 1
シリーズ名
シリーズ番号
編著者名
編集機関
財団法人栃木県文化振興事業団埋蔵文化財センター
発行機関
財団法人栃木県文化振興事業団埋蔵文化財センター
発行年月日 19920331
作成機関ID 09000
郵便番号 3290418
電話番号 0285448441
住所 栃木県下都賀郡国分寺町大字国分乙474
報告書種別
年報・紀要・研究論集・市史研究等・文化財だより
資料タイプ Research Paper
発掘調査報告 掲載されていない(発掘調査報告書総目録の掲載対象外)
所蔵大学(NCID)
JP番号
他の電子リソース
備考
1 北・東関東の揺籃期・加曾利E1式土器 海老原郁雄
2 宇都宮市花の木町遺跡出土土器の再検討 栃木県における古墳時代前期末の土器様相 後藤信祐
3 栃木県塩谷郡氏家町四斗蒔遺跡について 安永真一
4 大形前方後円墳の築造企画(1) 栃木県国分寺町山王塚古墳の復元をめぐって 小森紀男・齋藤恒夫
5 足利市機神山古墳群の形成過程について 斎藤弘・中村享史
6 古墳時代後期の朝鮮半島系冑 内山敏行
7 古代東国における墳墓の展開とその背景 仲山英樹
8 所謂中世遺跡出土の烏帽子について 烏帽子雑考 山口耕一
9 わが国近世以降における石灰焼成窯の技術史的研究 野州・八王子・美濃石灰の事例を通して 熊倉一見
所収論文
タイトル 北・東関東の揺籃期・加曾利E1式土器
英語タイトル
著者
海老原 郁雄 , EBIHARA Ikuo
ページ範囲 1 - 25
NAID
都道府県 茨城県 栃木県 群馬県
時代 縄文
文化財種別 考古資料
遺跡種別
遺物(材質分類) 土器
学問種別 考古学
テーマ 編年 文化系統
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引用表記
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抄録(内容要約)  縄文中期の中葉、北関東に大木8a式土器が伝播した時、既存型式の阿玉台式から新型式の加曽利EI式へ土器づくりの交替劇が急速に進展した。北関東ではこの外来土器と既存土器との暫し共存を経て、新たな加曽利EI式の成立を見るがそれらは地域個性の強い土器群であった。この一連の進展を大木8a式の伝播、土着、地域土器への消化・新立とするプロセスに分けると、前者を大木8a式の古段階、中・後者を新段階にあてることができる。それは関東編年では加曽利EI式古にあたるわけだが、地域土器が確立する画期に視点をおいて伝播・土着を前半段階、消化・新立を後半段階に区分して論を進めることにしたい。
 大木8a式の強烈な影響力にいち早く席圏されたのは、大木圏の南縁にあたる福島南部とその一衣帯水の地、栃木・茨城の北部である。これらの地域は関東圏と東北圏の狭間にあって、その時々に両圏の縄文文化が触れ合い、せめぎ合うひとまとまりの地域で、これを「亜関東圏」と仮称する。
 縄文中期の中葉、「亜関東圏」は“準大木圏”の様相を呈し地域色豊かな土器群を生起させる。それらは新来の大木8a式、既存の阿玉台式との暫し併存の間に、湯坂タイプや諏訪タイプなどの“合の子土器”のいくつかを含む多様な組成をもっている。大木8a式の滲透力は「亜関東圏」に隣接する北関東西奥の群馬西南部や茨城南部から千葉北部に及び東関東などの彼方の地へ達し、それぞれの地の〈土器つくり替え〉を促進した。
 しかし、各地における影響力の蒙り方は一様ではなく、土地柄を反映した局所的で、個性豊かな顔つきの土器群を族生させた。そのような大木の伝播当初にあっては、中味は異なっていても新来の大木8a式、既存の阿玉台式や勝坂式が併存し、それらの“合の子土器”の姿をした地域的な顔つきの土器がセットをなすのである。群馬の山間域に出現した「三原田式」、千葉北部を中心に盛行する「中峠式」はそうした地域個性が強く表出された土器群であった。大木8a式の滲透は地域的な土器群を生起させたが、やがてその影響圏の中で地域相互の交流をひき起し互恵的な文様要素の交換が進捗する。関東地方を縁取る北・東関東域に加曽利EI式が成立していく揺監期はそうした新鮮さと活力にみちた時代であった。いま、それらの地のいくつかの遺跡の土器群に基き、〈揺藍期・加首利EI式〉の様相について若干の見解を述べることにする。

 大木8a式の受容を契機として展開した土器型式の交替は、北関東に湯坂タイプ、諏訪タイプ、その山奥に「三原田式」、東関東に「中峠式」に総括される各タイプを族生させ、同地的だが豊かな地域個性をもつ土器群が当初段階を飾った。その地域差が「揺藍期」加曽利EI式の眼目であった。それは地域集団の保守性と伝統固執の傾向を暗示するものだが、瞬くうちに広域化が進捗することを見るとき、中期社会の汎化、斉一化へ向う壮大な流れとエネルギーを感ぜざるを待ない。個性の時代から斉一化の時代へ、活力にみちたこのような地域組成を、平板な画一的な組成へと動かし、“汎関東”化をもたらしたものは何だったのか。土器の世界の不思議さを改めて感じ入るばかりである。
タイトル 宇都宮市花の木町遺跡出土土器の再検討 栃木県における古墳時代前期末の土器様相
英語タイトル
著者
後藤 信祐 , GOTOU Shinsuke
ページ範囲 27 - 53
NAID
都道府県 山形県 福島県 茨城県 栃木県 群馬県 埼玉県 千葉県 東京都 神奈川県
時代 古墳
文化財種別 考古資料
遺跡種別 集落
遺物(材質分類) 土器
学問種別 考古学
テーマ 編年 文化系統
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引用表記
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抄録(内容要約)  栃木県内のこれまでの古墳時代前期の土器研究の現状を把握する。次に花の木町遺跡の報告時の概要を述べ、花の木町段階の設定を行う。そしてこれらの士器群と関連する県内の遺跡を紹介し、近県の該期の土器様相について概観した後、本県の花の木町段階とその前後の段階の土器様相について補足してみたい。
 これまでに、花の木町段階の設定を軸に、この前後の時期の土器様相について高杯と小型丸底坩の共伴から近県の土器様相を援用しながら本県についてみてきた。また、花の木町遺跡では高杯A1類とB1、B2類との共伴がSI-07、09でみられるが、近県では中実柱状のA1類は東北地方南部に分布の中心をもち関東地方では客体的な分布を示す。一方、高杯B2類と小型丸底坩A類の共伴は東北地方では不明であるが、関東地方ではそれほど珍しいことではない。花の木町遺跡でみられる高杯A類とB類の共伴は、本遺跡のほか埼玉・茨城の両県で散見できるのみであるが、北関東という地域であればこその共伴であり、この事実が関東地方と東北地方の両地域の編年の並行関係を考えるうえで、重要な鍵を握っていることは明らかである。
 花の木町遺跡出土の土器をみていくと、高杯はいずれも近畿地方にその系譜が求められるものであり、本県でそれまで影響の強かった東海系のものはS字輩と壷の一部にその残影がみられる程度である。この段階は本県ではまだ資料が充実しておらず、認識も不十分であるが、従来大きな画期があるとされていた和泉期の一段階前に東海系土器の払拭、畿内系土器への転換が行われていたものと考えられる。この時期、集落については東北地方南部で、遺跡の増加がみられる程度で大きな変化はみられないが、この時代の象徴ともいえる古墳においては、岩崎卓也が「四世紀末にはじまる東日本における土器の変化はそれまでの東海地方からの勢力を介しての間接的接触から、直接的なそれへの転換を意味するかとも思える。もしそうであるなら埋葬施設にみる中央への合一化も、東北地方への古墳分布の拡大もまた、相互に関連しあう、ひと続きの出来事だった公算が大きくなる。…………王権中枢とはひと味異なる個性をとどめた東日本の諸地域も、一部を除いて四世紀末には、王権中枢の直接的な影響下に組みこまれたとも読みとれるのである。割竹形木棺と粘土榔の波及、そして東北地方への古墳分布の拡大は、まさしくこの段階における現象であった。」と指摘するように大きな画期が認められるのである〈岩崎1989)。
 小稿は、本県であまり明確ではなかった古墳時代前期最終段階の十器様相について花の木町遺跡の資料を中心に指摘してみた。高杯A、B類の共伴に関しては、まだ資料が不足しており問題も残るが、多くの方々の御叱正、御批判をいただければ幸いである。
タイトル 栃木県塩谷郡氏家町四斗蒔遺跡について
英語タイトル
著者
安永 真一 , YASUNAGA Shin‘ichi
ページ範囲 55 - 84
NAID
都道府県 栃木県
時代 古墳
文化財種別 史跡 考古資料
遺跡種別 城館 その他
遺物(材質分類) 土器
学問種別 考古学
テーマ 文化系統 資料紹介 制度・政治
他の電子リソース
引用表記
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抄録(内容要約)  本稿では、本報告とは別に、現時点で報告できる範囲での四斗蒔遺跡調査の成果を述べると共に、自分自身まだ漠然としている考えを整理する意味を含めて、四斗蒔遺跡の成立について現在感じていることを述べてみたい。
 方形区画遺構を中心とした集落が形成された時期は、古墳時代前期である。しかし、遺構の斬り合いや出土遺物からその前後の時期の遺構も存在する。古墳時代前期以前の遺構については、P-8トレンチからは遺物のみ出土しており、第8号遺構も含め、その存在の可能性がある。方形区画遺構廃絶後の遺構としては、出土遺物より第14号遺構、方形区画遺構との斬り合いから第7号・17号・23号遺構が当たると思われるが、この他、確認された竪穴住居の中には第7号・14号・17号遺構と共に集落を形成していた住居もあると考えられる。従来、四斗蒔遺跡は古墳時代中期から後期を中心とした遺物が採集されており、方形区画遺構廃絶後も集落は周囲に展開したと思われる。
 遺構は調査対象とした徴高地の西寄りに集中する。しかし、G-9トレンチやO-19-②トレンチにおいても竪穴住居が確認されており、徴高地上全面にわたり住居跡が散在的に広がっていた可能性がある。また、今回の調査対象区外である調査区北側の道路を挟んだ田圃では、古墳時代前期の赤彩された壷形土器や器台形土器の破片が採集されている。古墳時代前期の時期に、遺跡はかなりの範囲に展開していたと考えられる。そして、その一角に方形区画遺構が営まれたと考えられる。
 2基の方形区画遺構は、最近事例が増え、研究・注目されている豪族居館とされる遺構の特徴を有する。第1号遺構は南北に突出部をもち、堀の内側に塀か柵を立てた布掘溝が平行して巡っている。これは、第2号遺構に面する東側で途切れており、出入り口部が想定される。また、堀の埋土の堆積状況より、堀の掘削土は堀の外側に盛られていたと考えられる。これが果して士塁として盛られ機能していたものか、それとも単に堀の内側の空間を広くとるために堀の外側に盛られたものかは検討が必要である。内部の構造は不明確だが、北辺堀の内側にやや大形の竪穴住居第22号遺構があり、堀出土の土器と同時期頃の土器が見つかっている。この第22号遺構の内側には、さらに布掘溝が存在し、第1号遺構内をさらに区画する施設があることが考えられる。
 一方第2号遺構は、規模においてやや第1号遺構を上回るが、突出部をもたず、堀の内側を巡る布掘溝も一部でしか確認できなかった。また、土塁の有無も不明で、ある。内部には、何軒かの竪穴住居が存在するが、(どれが、あるいは全てが)堀と同時期か否かは不明である。
 ところで2基の方形区画遺構が同時に存在したかどうか、あるいは第1号遺構の東辺堀と第2号遺構の西辺堀とが共有し合ったのか、接していたのか、離れていたのかなどは明らかにすることができず、問題として残った。出土遺物の上では、第2号遺構からの遺物が少なくいずれも古墳時代前期に収まると思われるので第1号遺構との明確な時間差は言えない。ただ、両遺構が全く別の遺構とは考えられず、構築時期・廃絶時期とも若干時間差があるとしても、2基でひとつの役割を果たしていたと思われ、各々の遺構はその機能により区別されていたものと考える。そのことは、第1号遺構に突出部や布堀溝があるのに対して、第2号遺構には突出部がなく、布掘溝が一部にしかないことからも言えようか。
 方形区画遺構と同時期に存在したと思われる住居跡は、第3号・6号・16号・22号遺構などで、古墳時代前期の土器が出士している。ただし、いずれも遺構を掘り下げて出土したものではないので、後代の遺構に混入した遺物の可能性もある。この方形区画遺構と住居跡の関係で注目される点は、ひとつは区画の内外に住居跡が存在すること。ひとつは第1号遺構の中の大形住居第22号遺構の存在である。区画の内外に住居跡があること、言い替えれば、集落内に方形区画遺構があることは、方形区画遺構の性格と集落の性格を考える上で重要な点である。一方第22号遺構はやや大形な点の他、さらに内側を布掘溝で区画されている点から、第1号遺構の中で主要な位置を占めていた建物の可能性があると言える。
 四斗蒔遺跡の地理的位置より、荒川上流域の遺跡群と小貝川・五行川流域の遺跡群を結ぶルート上に位置することがわかる。かつて橋本澄朗氏は、遺跡の分布や土器・周溝墓のあり方から古墳出現期に荒川流域を拓いた人々が五行川・小貝川を経由してきた可能性を指摘しているが、四斗時遺跡はそのルートの空隙を埋める箇所に位置するのである。
 さらに四斗蒔遺跡の地理的位置を見るならば、荒川を渡ることにより、那珂川流域の遺跡群とは最も近接する位置にあると言える。四斗蒔遺跡と那珂川流域の遺跡群との間は、調査例の僅少さや金枝軍沢遺跡の存在などを考えると、今後該期遺跡が確認される可能性がある。また、後の東山道が四斗蒔遺跡の南を通り、那須地方に抜けていることも考えると、それ以前の時期に四斗蒔遺跡付近から那珂川流域に抜けるルートが存在していた可能性は否定できないものである。
 このように四斗蒔遺跡は、小貝川・五行川流域から荒川上流域へのルートと那珂川流域へのルートの分岐点に位置すると言える。それは、流通・交通の要所であり、時代の背景によっては軍事的要所とも言える位置であり、四斗蒔遺跡はそのような位置に成立したのである。
タイトル 大形前方後円墳の築造企画(1) 栃木県国分寺町山王塚古墳の復元をめぐって
英語タイトル
著者
小森 紀男 , KOMORI Norio
齋藤 恒夫 , SAITOU Tsuneo
ページ範囲 85 - 106
NAID
都道府県 栃木県
時代 古墳
文化財種別 史跡 考古資料
遺跡種別 古墳
遺物(材質分類)
学問種別 考古学
テーマ 技法・技術 編年 建築様式
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抄録(内容要約)  山王塚古墳は、国分寺町大字国分甲字阿弥陀1404~3番地に所在する大型の前方後円墳である。
 山王塚古墳の発掘調査に汗を流し、また報告書作成に図面の墨を入れながら、常に頭にあったことは、なぜ、埋葬施設が前方部のくびれ部よりに存在し、なぜ、石室の平面プランが歪んだ形状を呈しているのかだった。そのような時、石部正志先生は、「これほどの大型古墳であるから、埋葬施設の位置も、その構造も、墳丘の、あるいは石室の全体的な平面プランの中で、必ず位置づけられているはずですよ」と言われ、それに関する種々の助言をして下さった。
 解決の糸口は、石室の「掘り方」の南北ラインが、奥壁と玄門のそれぞれ中央を結んだラインに平行していることと、山王塚古墳と国分寺愛宕塚古墳の埋葬施設の位置が、全く同じ位置関係にあるらしいということの2点であった。この見通しの中で検討した結果、山王塚古墳と国分寺愛宕塚古墳とは、同ーの築造企画にもとづいて築造されていること、山王塚古墳の石室の歪みも、1つの築造企画にもとづいて墳丘と石室の有機的な関連のもとで構築されていることが明らかとなった。従来、墳丘は墳丘、石室は石室というように別々に考えられ、検討を加えられがちであった。しかし、今回の細やかな調査によって、墳丘における石室の位置も、総体として、全体的な築造企画の中に位置づけられていることを示すことができた。
 本小考では、山王塚古墳と国分寺愛宕塚古墳とが、きわめて密接な関係をもって営まれていたことが明らかとなった。思川・姿川流域を中心に分布する、下野型とよばれる大型古墳は、石室の位置・石材・構築法などが共通するほか、墳丘の規模にも相互の企画性が認められるという。今後はさらに、地域を広め、墳丘の築造企画とともに埋葬施設の比較検討を行い、その背景にあるものを問題にしていきたい。本小考がそのための一里塚となるよう努力したく、大方の御指導、御批判をいだだけたら幸いである。
タイトル 足利市機神山古墳群の形成過程について
英語タイトル
著者
斎藤 弘 , SAITOU Hiroshi
中村 享史 , NAKAMURA Takashi
ページ範囲 107 - 142
NAID
都道府県 栃木県
時代 古墳
文化財種別 史跡 考古資料
遺跡種別 古墳
遺物(材質分類) 土製品(瓦含む)
学問種別 考古学
テーマ 編年 資料紹介
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wikipedia 出典テンプレート : {{Citation|first=弘|last=斎藤|first2=享史|last2=中村|contribution=足利市機神山古墳群の形成過程について|title=研究紀要|date=1992-03-31|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/105394|location=栃木県下都賀郡国分寺町大字国分乙474|ncid=AN10460944|doi=10.24484/sitereports.105394|volume=1}} 閉じる
抄録(内容要約)  群中でも傑出した3基の前方後円墳(機神山山頂古墳、行基平山頂古墳、機神山26号墳)について、測量図をもとに墳形を比較し、その形成過程や性格を論じてみたい。また古墳群を評価するにあたり、その築造順序ばかりでなく、諸要素を多角的に分析する必要のあることは言うまでもない。そこで、機神山山頂古墳の石室の実測を実施する等、これまで資料を整えてきた。ここでは石室、副葬品、埴輪などを取り上げ、足利地方の他の古墳と比較し、本古墳群の位置付けに言及する。
 最古の行基平山頂古墳は5世紀末頃、次の機神山26号墳は6世紀代、最新の機神山山頂古墳は6世紀末の築造と考えられる。群集墳はどうか。詳細は測量が進む今後の課題としたいが、現時点ではつぎのように言える。行基平1、3号墳は、石室の形態からTK43-209式期となるだろう。長林寺裏古墳は、副葬品や石室からTK209式期に相当すると考えられる。また織姫神社境内古墳は、出土した鉄鏃などからTK43-209式期の年代が与えられる。
 本古墳群の形成は次のようになるだろう。5世紀末頃、最初の首長墓である行基平山頂古墳が築造される。次の首長墓として、横穴式石室を有する機神山26号墳が築造される。さらに機神山山頂古墳が築造される。これと相前後して、群集墳の多くが造営される。少し遅れて優れた副葬品を有する長林寺裏古墳の造営となるのである。
 このような古墳群形成のあり方は、本地域の他の古墳群と共通する一面がある。明神山古墳群も、前方後円墳築造後程なく多くの群集墳が造営されている。共通の背景があるものと考えられる。
 6世紀代の足利地方には、他より一歩抜きでた首長墓の系譜を辿ることができる。市橋一郎、大津伸啓、足立佳代の各氏が足利市域の古墳について概観している中で、本地域全体の首長墓の変遷を捉えた視野で、常見古墳群を取り上げている。正善寺古墳から海老塚古墳を経て口明塚古墳に至る順序で変遷するという従来の見解が、発掘調査によって裏付けられた。こうした変遷が6世紀の後半代にあり、その間に前方後円墳から円墳へと変化するとしている(市橋ほか1992)。この古墳群は、前方後円墳消滅後としてはひときわ大規模である。また、周囲に群集墳を伴わないことも特色である。このことも他の小首長墓に卓越する古墳群のあり方なのかもしれない。
 機神山古墳群の首長墓の系譜は、機神山山頂古墳を最後に不明瞭になる。その築造は正善寺古墳と海老塚古墳の間とみられる。同じ時期には、水道山古墳が築造されている。これを最後に、足利地方では前方後円墳が消滅すると考えられる。両古墳は最後の前方後円墳であると言えるだろう。
 その後の首長墓の条件としては、前方後円墳ではないにしろ、他より大規模な墳丘を有し、優れた副葬品がみられなくてはならないだろう。現在のところ、候補はあるものの、常見古墳群を除いては明らかになっていない。同じ首長墓ではあるが、常見古墳群と他の古墳群の主墳との聞には、この頃から大きな格差が生じたと思われる。常見古墳群に眠る一族が、6世紀末から7世紀始めまでに足利地方を統括する首長に成長したと考えてよかろう。
 機神山古墳群を中心に足利市の後期古墳について考察してみた。残された課題は多いが、それらを考えることでまとめにかえたい。
 日本の各地域において後期古墳を考えるとき、全国的、斉一的現象として把握できるのは前方後円墳と埴輪の消滅の問題である。栃木県では前方後円墳の消滅後、首長墓は円墳に変化する。これは群馬県や千葉県で方墳に変化するのと対照をなしている。埴輪も前方後円墳に先立って消滅することも知られている。しかし群馬県では最後の前方後円墳まで埴輪が存続しており、地域によって消滅の時期がずれることを示している。足利市においては前方後円墳消滅後は、海老塚古墳のような円墳が築造される点では栃木県内の他の地域と共通している。
 しかし埴輪に関しては市内の殆どの前方後円墳が埴輪を有しており、群馬県に近い状況を呈している。それだけでなく、海老塚古墳でも埴輪が出土しており、前方後円墳消滅後もなお埴輪が残存していたことが分かる。このような特殊性は足利市地域独自のものであるが、その範囲がどこまでおよぶかは今回明確にし得なかった。今後の課題としたい。
 足利市は栃木県でも特に古墳が密集する地域として知られているが、それらのほとんどは群集墳を構成する小規模な古墳である。今回扱った古墳の数は限られており、群集墳論を展開できるような状況にない。しかし埴輪や横穴式石室の様相からは、首長墓と考えられるような大規模古墳と対比した場合、様相が違っていることは分かる。横穴式石室における無袖型胴張り形と埴輪における開く器形は両者とも首長墓よりも群集墳の方が早く出現している。これらの理由については明らかではないが、それぞれの生産体制はもとより、首長墓と群集墳の階層的関係の追求を通して明らかにすべきことであろう。
 足利市は栃木県内にあっては、その地理的条件からほかの地域から独立して考えられることが多い。そのためか、近年、著しい進展を見せている栃木県の古墳時代研究の中でも足利市の古墳については明確な位置付けが成されているとは言い難い。それは本論で見たような古墳時代後期における足利市地域の独自性によるところが大きい。今後、その独自牲をより多く抽出し、詳細な分析をしていかなければならないと考えている。
タイトル 古墳時代後期の朝鮮半島系冑
英語タイトル
著者
内山 敏行 , UCHIYAMA Toshiyuki
ページ範囲 143 - 165
NAID
都道府県 福島県 栃木県 群馬県 埼玉県 千葉県 大阪府 和歌山県 岡山県 アジア州(日本除く)
時代 古墳
文化財種別 考古資料
遺跡種別 古墳
遺物(材質分類) 金属器
学問種別 考古学
テーマ 編年 文化系統 軍事
他の電子リソース
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抄録(内容要約)  日本列島の後期古墳から朝鮮半島系の竪矧板冑が出土する。その中には、三国時代の社会で身分を示した突起付冑を含む。倭の冑はそれらの形態を採用せず、製作技法だけを衝角付冑に採用する。以上を論じ、朝鮮半島の身分制と軍制に関わる人物が6世紀の半島列島間交渉で往来・活動したが、その身分標識が倭に定着しなかったと考える。

 冠帽系冑は普通の武具ではなく、冠帽の身分表示機能を合わせ持つ。冠帽系冑が確認されている5世紀後葉~6世紀前葉の伽耶地域で、軍事的職能と政治的身分が深く関連していたことを意味する。軍人が社会的にも高い身分を持ったか、または身分の高い人物が軍事指導者を兼任したということである。社会的・軍事的緊張の高い社会を復元できる。
 6世紀中~後葉以後、冠帽系冑の身分秩序が崩れたか、それにかわる新しい制度が整備されたのだろう。朝鮮半島の冠帽系冑は突起付冑に変化し、さらに、冠帽も副葬されなくなってゆく。
 古墳時代の倭の冑には、朝鮮化現象が2回ある。中期第3段階(古墳時代中期後菓)と、後期第2段階(後期中葉)である。上下2段の横長の地板(三角板や横矧板)を胴巻板で合わせて作るそれまでの倭系冑が、このとき、縦長の地板(竪矧板)を使うように変化する。
 この2回の画期には、冑以外にも朝鮮半島系の各品日・各技術がまとまって流入する。朝鮮半島と日本列島との交渉が活発化した時期である。
 朝鮮半島系の突起付冑が日本の後期古墳から出土することは、突起付冑を持つ政治的・軍事的身分を持って、朝鮮半島のおそらく伽耶地域で活動した人物が6世紀の半島-列島聞の政治的交渉にあたって往来した可能性を示す。冠帽系突起付冑は限定された着用者の身分を示す標識であり、単なる輸出品として倭に渡ったとは考えにくいからである。
 日本列島に来た突起付冑は、身分標識として定着しなかった。その形態(form)を倭の甲冑様式に取り入れた様子がないからである。渕の上1号墳のような小古墳(円墳?)が突起付冑を副葬することから、倭では身分標識の用をなさないために、二次的所有者ヘ移動したのかもしれない。朝鮮三国や伽耶と倭の社会成層(地位の序列)の中味が違い、また、倭の身分制(制度化された地位体系)の整備が遅れていたことが背景だろう。
 冑だけでなく、挂甲や金銅製品類(飾大刀・金銅装馬具・装身具)も朝鮮半島から古墳時代の日本列島に持ち込まれ、一部は倭に定着して模倣生産される。これらは、朝鮮三国や伽耶の社会の身分標識であった。朝鮮側の社会から見て、社会的身分の格付けを全く伴わない、単なる輸出品だとは考えにくい--最終的な倭の所有者が、遠来の珍しい宝物としか見ていなかったとしても。また、倭でも一部は単なる威信財(prestige goods) でなく、身分標識(status symbols)の意味を持ち始めていた可能性がある。飾大刀についてすでに指摘されている(向坂1971など)。他の遺物と共に、さらに検討したい。
タイトル 古代東国における墳墓の展開とその背景
英語タイトル
著者
仲山 英樹 , NAKAYAMA Hideki
ページ範囲 167 - 273
NAID
都道府県 秋田県 山形県 福島県 茨城県 栃木県 群馬県 埼玉県 千葉県 東京都 神奈川県 大阪府 福岡県
時代 古墳 飛鳥白鳳 奈良 平安
文化財種別 史跡 考古資料
遺跡種別 古墳
遺物(材質分類) 石製品 土器
学問種別 考古学
テーマ 文化系統
他の電子リソース
引用表記
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抄録(内容要約)  研究史の総括から3点の課題を設定した。それは、①火葬普及の度合の検討、②墳墓確認、遺跡の性格とその被葬者像の推定、③古墳時代からの墓制の展開、である。
 そうした3点の課題に対する史料からの検討では、①天皇・貴族層には火葬は葬法として一般化せず、火葬が定着するのは11世紀以降であること。それも総ての人が火葬によったものではないこと。②庶民層では、火葬はまったく定着していないこと。③そうした喪葬のあり方は、階層毎に追及する必要があること。在地社会においても、一般的な庶民と「富豪層」などは区別が必要なこと。④従って、古代の社会一般として、火葬は定着していたとはいい難いこと、の4点が理解された。そのうち、①の点に関しては、黒崎直氏の検討(黒崎1980)を確認するものとなった。また、天皇喪葬を規範として墓制の変転に左右される貴族層の喪葬、という氏の指摘がきわめて重要な視点を合んでいることが確認された。
 次に、古代東国における墳墓確認遺跡の検討と分類を行った後に、古墳時代からの墓制の展開、主として群集墳からの墓制の展開を検討した。まず、①東国の群集墳では、8世紀代までその利用が続いたものが予想以上に多いこと。②群集墳のあり方から、7世紀前半頃に喪葬に変化があったこと。その変化は、「世代内追葬」→「世代間追葬」とも呼ぶべきものであり、世帯共同体の家長的な中心人物のみが石室墳に埋葬されるようになったこと、の2点が推定された。次に、
 IA類 火葬墓のみが群集している遺跡。
 IB類 火葬墓が単独で確認された遺跡。
 II類 火葬墓と土坑墓がともなって墓域を構成している遺跡。
 III類 土坑墓のみが確認された遺跡(そのうち、集落内に単独で土坑墓が存在するIIIA類と、集落外に群集して存在するIIIB類の2類が認められた)。
というように類型化された墳墓確認遺跡の検討を行った。検討の結果、
 1A類 群集墳の墓制の流れを汲む「家長」の墓の累積、その営墓集団は有力な世帯共同体。
 1B類 IA類から派生した、土地の開発や私的領有を目的として開発地に進出したもの。
 II類 やはり1A類から派生したもので有力な世帯共同体の家族墓。土地の開発や私的領有を目的とする他、免租や叙位をも射程に収めていた可能性がある。中心的な被葬者には、「家長」として男性と女性が認められる。
 IIA類 集落を構成する集団の中核となる人物を被葬者とする。I・II類から変遷したものが含まれる。
 IIIB類 集落を構成している集団の、一般的な構成員。ないし、庶民層。
というような、結果を得ることが出来た。
 ここで検討の対象としたのは、主として古代東国の例であった。実際の問題として、古代東国の墳墓の総てが、上の3類で網羅できるものではなかろう。しかし、古代東国の在地社会において展開した墳墓の相当の部分が、上記の分類で説明できるものと考えている。また、その基本的な墓域の構造は、東国に限らず、全国の在地社会においても適応できるのではないかと予測している。
タイトル 所謂中世遺跡出土の烏帽子について 烏帽子雑考
英語タイトル
著者
山口 耕一 , YAMAGUCHI Kouichi
ページ範囲 275 - 293
NAID
都道府県 栃木県 神奈川県 奈良県 福岡県
時代 鎌倉 南北朝 室町 戦国
文化財種別 考古資料
遺跡種別
遺物(材質分類) 繊維製品(紙含む) 漆器
学問種別 考古学
テーマ 技法・技術 文化系統 素材分析
他の電子リソース
引用表記
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抄録(内容要約)  全国でも出土例の少ない服飾具の中の烏帽子について、下古館遺跡出土遺物を中心に、絵画資料等を使い若干の検討をおこなってみたい。
 神奈川県鎌倉市今小路西遺跡、福岡県福岡市博多区博多駅築港線関係遺跡(博多遺跡群)、栃木県下都賀郡国分寺町下古館遺跡出土烏帽子について検討を加えてみたい。
 いずれも13世代から15世紀代の遺跡出土のものである。考古遺物としては非常に類例が少なく比較検討することもままならないのでこの後も若干絵画資料を用いて比較検討を行ってみたい。
 烏帽子は中世において、成人男子のみが被ることができたものである。成人といっても年齢的に成人に達したからといって皆が被れるものではなく、烏帽子親から烏帽子とともに烏帽子名を付与され、元服式を行い髻を結わなければ被れないものなのである。烏帽子は現代人には想像もつかないが、被る人の身分を示す働きと共に、頭部(髻)を隠すものであった。絶対と言ってよいほど頭部は他人には見せないのである。そのためには昼夜屋内屋外を問わず就寝中でさえも被っていなければならないのである。就寝中においても被ったまま寝ている様子は「親鸞上人絵伝」にも見ることができる。また、常に烏帽子が落ちないようにする為には、髻に烏帽子を左右からの紐によって縛りつけるわけであるが、その為の紐と思われるものが、下古館遺跡出土の破片には見ることができる。このように紐によって頭部に固定しているため、争って脱げかけても後頭部の髻によって落ちないのである。絵画資料の中にも小結を結っているのがわかるものがある。
 このように、中世において身分を問わず、僧侶、罪人、重病人、死者以外は烏帽子を被っていたわけであるが、各遺跡出土の烏帽子はどのような身分の人が被っていたものなのかは遺物からは明確に判断できない。絵画資料によっても13世紀から14世紀頃の烏帽子は身分によって明確に描き分けられておらず、中世後期から近世期に発達したまねきの角度のきつい侍烏帽子や頂頭掛けをしているものと同様のものが出土しないかぎり、現状ではそれぞれの烏帽子の所有者の身分は、庶民とも武士とも判断はつきかねる。下古館遺跡出土のものは左折れで、博多遺跡群出土のものは右折れであるが、その折りかたも約50種類程度あるといわれているが、この左右の違いは何を意味するものなのかは不明である。
 中世遺跡出土の烏帽子について見てきた訳だが、全国での出土数も5~6点前後と非常に少なく、伝世品として残っているものも中世の折烏帽子は非常に数が少なく、近世期のものも有職故実を例としての復元品、復古品であり、材質や製作技法についても不明な点が多い。
 中世において成人男性の生活必需品であったにもかかわらず、生産者である烏帽子折の所在地も17世紀の京では、「洛ノ南ニ在り」とありこの後やや下ると烏帽子屋は、「室町一条上ル町、この他、所々にあり」(人倫訓蒙図集)という程度しか判明しない。謡曲「烏帽子折」では、奥州へ下る牛若丸が近江国境の里に於いて元服する為に烏帽子を供の者が調達するわけであるが、地方での生産、消費流通や価格など商品としての烏帽子を今回述べることができなかった。今後、他の遺物などもともに商品経済の検討を行ってみたい。
タイトル わが国近世以降における石灰焼成窯の技術史的研究 野州・八王子・美濃石灰の事例を通して
英語タイトル
著者
熊倉 一見 , KUMAKURA Kazumi
ページ範囲 295 - 332
NAID
都道府県 栃木県 東京都 岐阜県
時代 江戸 明治 大正 昭和
文化財種別 建造物 考古資料 有形文化財
遺跡種別
遺物(材質分類) その他
学問種別 考古学 文献史学
テーマ 技法・技術
他の電子リソース
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抄録(内容要約)  本稿ではこれら石灰利用の歴史をふまえ、近世~近代にかけて国内有数の主産地を形成した野州・八王子・美濃の各石灰工業史を概観し、近世後期より戦後まで使用された焼成窯の変遷を辿りつつ築窯・焼成技術の系譜を述べ、現存遺構について論じた。さらに、本邦窯業窯炉史上全く研究の進展を見なかった石灰窯炉の技術史的諸問題に関し言及した。
 近年、特に近世・近代の技術史研究は各地で近世~戦前の考古学的調査が実施されるに及び製鉄・繊維業を主に飛躍的に進歩し多くの成果をもたらした。加えて古文書等による文献史料の発見は、理化学的調査の発達と相俟ってってその検証手段として重きをなしている。
 ここでは近世期に於いて最も重要な在来工業でありながら、ほとんど省みられなかったわが国の石氏工業草創期を技術史的視点より産業考古学的手法を用い検討を試みた。
 本稿では石灰製造工程中、焼成を担う窯炉の変遷と築窯及び焼成技術の流れ、並びに近世以降の代表的な産地を形成した野州・八王子・美濃の製造初期の経緯に関して論じてきた。中・近世以降石灰産業はわが国の一大在来工業であるにも拘らず、今日まで殆ど実態解明がなされず産業史・技術史的調査の及んでいない分野の1つである。ここでは現在までの調査で判明した事柄を次の5点に要約し結語とする。
(1) 横窯から竪窯への転換
 薪炭燃料の横窯(不連続窯・斜面築窯)も近代になり燃料不足や石灰需要の増大等により効率の良い竪型石炭窯(連続窯・平地築窯)が導入され、生産量・窯数ともに増加し従来の親方制に替わり窯主体の請負制が確立される。石灰焼成で竪窯を使用する以前、既に明治10年代に関連産業のセメント工業で実用化されており、それらからの技術転移を示唆している。
(2) 谷焼窯の実態解明
 壷焼法・谷焼法は近世期野州で発明され野州各産地へ普及する。この大型窯の出現により大量生産を可能とし製造作業の分業化が生じた。比較的生産効率が低く質は落ちるが莫大な焼成量を得られるため近世後期~近代の主流をなした。なお管見の限りにおいて近世この規模を誇る横窯の採用は野州石灰のみである。
(3) 竪窯(七輪窯)の導入と背景
 近代初期の石灰竪窯である七輪窯には構造・形態的は同様であるが、簡便な八王子型より強固な構造を有し量産に適した野州型が存在する。連続焼成窯であるが前者は構造上長期使用には不適で、固定窯としてではなく石灰産地(本間)へ必要に応じ築造されたものである。導入の経緯に関しては前者は地元で考案された可能性を残しながらも、明治30年代に野州よりの改良竪窯の技術導入が示すように、野州竪窯からの築窯焼成技術の関与を示唆する。後者の野州型は近代中期相前後して石灰先進地よりもたらされ、美濃竪窯(櫓窯の改良か)より派生したものである。
 導入の背景を見ると、燃料不足・同騰貴による窯の存続、需要増大に対する高効率窯の採用の2点に集約される。
(4) 日本最古の石灰窯「本窯」
 窯と称しているが石灰の野焼製造の一種である。原石・燃料所在地に随時築造し、特に薪炭が不足すると移動焼成する非固定窯である。八王子石灰焼成初期の慶長年聞から大正年聞にかけて実に300年にわたり、殆ど改良される事無く連綿と築窯及び焼成技術が当地の石灰製造人に受継がれてきた。その意味からも現在わが国で確認されている石灰窯遺構としては最古に属するものと言える。
(5) 石灰窯の保存問題について
 近代以降幾多の技術革新による石灰工業の発展は、過去の事績を顧みる事なく市場獲得にしのぎを削り、高品位製品を大量に世に送り出した。当初建築物を主に農業・医療等限られた用途も現在工業用を始め多くの関連分野に利用されている。江戸時代幕府御用として保護され、近世期の在来工業中最も重要な産業であったことなど顧みるいとまがない程、科学技術の進歩は目覚ましい。
 谷焼窯・七輪窯・本窯・木崎家の石灰遺構等は各自治体の文化財指定により保存処置が講じられている。窯単体の保存に対し、特に青梅市所在の木崎石灰関連遺構は近世の石灰製造を一連の作業工程の中で再現できる数少ない遺跡である。現状での保存を切望する。
 又、石灰産地で散見できる土中式徳利窯(円筒式石炭窯・混合装填式)は現状では殆どが放置されており、回転窯導入以前のわが国における石灰焼成の主流をなしたものとして残念に思う。
所収遺跡
遺跡名 四斗蒔遺跡
遺跡名かな しとまきいせき
本内順位
遺跡所在地 栃木県塩谷郡氏家町大字挟間田
所在地ふりがな とちぎけんしおやぐんうじいえまちおおあざはさまだ
市町村コード 09385
遺跡番号 24
北緯(日本測地系)度分秒
東経(日本測地系)度分秒
北緯(世界測地系)度分秒 364119
東経(世界測地系)度分秒 1400048
経緯度(世界測地系)10進数(自動生成) 36.688611 140.013333
※当該位置周辺を表示し、同一名称の遺跡データが存在する場合は遺跡をポイント表示します。
調査期間
19880621-19880720
調査面積(㎡)
3600
調査原因 県営圃場整備事業
遺跡概要
種別
集落
城館
その他
時代
弥生
古墳
主な遺構
掘立柱建物跡
柱穴列
土坑
方形区画遺構
竪穴建物跡
主な遺物
土師器
弥生土器
特記事項 古墳時代前期の2基の方形区画遺構は、豪族居館とされる遺構の特徴を有する。圃場整備事業に伴う1988年調査の概要報告が、この『研究紀要』第1号(1992)に掲載された安永真一「栃木県塩谷郡氏家町四斗蒔遺跡について」である。本遺跡で1989年と1997-1999年度に新潟大学考古学研究室が実施した発掘調査の報告書は、橋本博文ほか『古墳時代における首長層の居館と奥津城の関連性に関する研究』(新潟大学、2000)がある。
要約  古墳時代前期の方形区画遺構を中心とした集落で、その前後の時期の遺構も存在する。古墳時代中期から後期を中心とした遺物が採集されており、方形区画遺構廃絶後も集落は周囲に展開したと思われる。遺構は徴高地の西寄りに集中し、徴高地上全面に住居跡が散在的に広がっていた可能性がある。古墳時代前期に遺跡はかなりの範囲に展開し、その一角に方形区画遺構が営まれたと考えられる。
 2基の方形区画遺構は、豪族居館とされる遺構の特徴を有する。第1号遺構は南北に突出部をもち、堀の内側に塀か柵を立てた布掘溝が平行して巡る。これは、第2号遺構に面する東側で途切れ、出入り口部が想定される。また、堀の埋土の堆積状況より、堀の掘削土は堀の外側に盛られていたと考えられる。北辺堀の内側にやや大形の竪穴住居第22号遺構があり、堀出土の土器と同時期頃の土器が見つかっている。この第22号遺構の内側に、第1号遺構内をさらに区画する布掘溝が存在すると考えられる。
 第2号遺構は、規模においてやや第1号遺構を上回るが、突出部をもたず、堀の内側を巡る布掘溝も一部でしか確認できなかった。土塁も不明である。内部には、何軒かの竪穴住居が存在するが、堀と同時期か否かは不明である。
 2基の方形区画遺構が同時に存在したかどうか、あるいは第1号遺構の東辺堀と第2号遺構の西辺堀とが共有し合ったのか、接していたのか、離れていたのかなどは明らかにすることができず、問題として残った。構築時期・廃絶時期とも若干時間差があるとしても、2基でひとつの役割を果たしていたと思われ、各々の遺構はその機能により区別されていたものと考える。
 方形区画遺構と同時期に存在したと思われる住居跡は、第3号・6号・16号・22号遺構などで、古墳時代前期の土器が出士している。ただし、いずれも遺構を掘り下げて出土したものではないので、後代の遺構に混入した遺物の可能性もある。注目される点は、区画の内外に住居跡が存在することと、第1号遺構の中の大形住居第22号遺構の存在である。集落内に方形区画遺構があることは、方形区画遺構の性格と集落の性格を考える上で重要な点である。第22号遺構はやや大形な点の他、さらに内側を布掘溝で区画されている点から、第1号遺構の中で主要な位置を占めていた建物の可能性がある。

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