北・東関東の揺籃期・加曾利E1式土器
海老原 郁雄
( EBIHARA Ikuo )
縄文中期の中葉、北関東に大木8a式土器が伝播した時、既存型式の阿玉台式から新型式の加曽利EI式へ土器づくりの交替劇が急速に進展した。北関東ではこの外来土器と既存土器との暫し共存を経て、新たな加曽利EI式の成立を見るがそれらは地域個性の強い土器群であった。この一連の進展を大木8a式の伝播、土着、地域土器への消化・新立とするプロセスに分けると、前者を大木8a式の古段階、中・後者を新段階にあてることができる。それは関東編年では加曽利EI式古にあたるわけだが、地域土器が確立する画期に視点をおいて伝播・土着を前半段階、消化・新立を後半段階に区分して論を進めることにしたい。
大木8a式の強烈な影響力にいち早く席圏されたのは、大木圏の南縁にあたる福島南部とその一衣帯水の地、栃木・茨城の北部である。これらの地域は関東圏と東北圏の狭間にあって、その時々に両圏の縄文文化が触れ合い、せめぎ合うひとまとまりの地域で、これを「亜関東圏」と仮称する。
縄文中期の中葉、「亜関東圏」は“準大木圏”の様相を呈し地域色豊かな土器群を生起させる。それらは新来の大木8a式、既存の阿玉台式との暫し併存の間に、湯坂タイプや諏訪タイプなどの“合の子土器”のいくつかを含む多様な組成をもっている。大木8a式の滲透力は「亜関東圏」に隣接する北関東西奥の群馬西南部や茨城南部から千葉北部に及び東関東などの彼方の地へ達し、それぞれの地の〈土器つくり替え〉を促進した。
しかし、各地における影響力の蒙り方は一様ではなく、土地柄を反映した局所的で、個性豊かな顔つきの土器群を族生させた。そのような大木の伝播当初にあっては、中味は異なっていても新来の大木8a式、既存の阿玉台式や勝坂式が併存し、それらの“合の子土器”の姿をした地域的な顔つきの土器がセットをなすのである。群馬の山間域に出現した「三原田式」、千葉北部を中心に盛行する「中峠式」はそうした地域個性が強く表出された土器群であった。大木8a式の滲透は地域的な土器群を生起させたが、やがてその影響圏の中で地域相互の交流をひき起し互恵的な文様要素の交換が進捗する。関東地方を縁取る北・東関東域に加曽利EI式が成立していく揺監期はそうした新鮮さと活力にみちた時代であった。いま、それらの地のいくつかの遺跡の土器群に基き、〈揺藍期・加首利EI式〉の様相について若干の見解を述べることにする。
大木8a式の受容を契機として展開した土器型式の交替は、北関東に湯坂タイプ、諏訪タイプ、その山奥に「三原田式」、東関東に「中峠式」に総括される各タイプを族生させ、同地的だが豊かな地域個性をもつ土器群が当初段階を飾った。その地域差が「揺藍期」加曽利EI式の眼目であった。それは地域集団の保守性と伝統固執の傾向を暗示するものだが、瞬くうちに広域化が進捗することを見るとき、中期社会の汎化、斉一化へ向う壮大な流れとエネルギーを感ぜざるを待ない。個性の時代から斉一化の時代へ、活力にみちたこのような地域組成を、平板な画一的な組成へと動かし、“汎関東”化をもたらしたものは何だったのか。土器の世界の不思議さを改めて感じ入るばかりである。
大木8a式の強烈な影響力にいち早く席圏されたのは、大木圏の南縁にあたる福島南部とその一衣帯水の地、栃木・茨城の北部である。これらの地域は関東圏と東北圏の狭間にあって、その時々に両圏の縄文文化が触れ合い、せめぎ合うひとまとまりの地域で、これを「亜関東圏」と仮称する。
縄文中期の中葉、「亜関東圏」は“準大木圏”の様相を呈し地域色豊かな土器群を生起させる。それらは新来の大木8a式、既存の阿玉台式との暫し併存の間に、湯坂タイプや諏訪タイプなどの“合の子土器”のいくつかを含む多様な組成をもっている。大木8a式の滲透力は「亜関東圏」に隣接する北関東西奥の群馬西南部や茨城南部から千葉北部に及び東関東などの彼方の地へ達し、それぞれの地の〈土器つくり替え〉を促進した。
しかし、各地における影響力の蒙り方は一様ではなく、土地柄を反映した局所的で、個性豊かな顔つきの土器群を族生させた。そのような大木の伝播当初にあっては、中味は異なっていても新来の大木8a式、既存の阿玉台式や勝坂式が併存し、それらの“合の子土器”の姿をした地域的な顔つきの土器がセットをなすのである。群馬の山間域に出現した「三原田式」、千葉北部を中心に盛行する「中峠式」はそうした地域個性が強く表出された土器群であった。大木8a式の滲透は地域的な土器群を生起させたが、やがてその影響圏の中で地域相互の交流をひき起し互恵的な文様要素の交換が進捗する。関東地方を縁取る北・東関東域に加曽利EI式が成立していく揺監期はそうした新鮮さと活力にみちた時代であった。いま、それらの地のいくつかの遺跡の土器群に基き、〈揺藍期・加首利EI式〉の様相について若干の見解を述べることにする。
大木8a式の受容を契機として展開した土器型式の交替は、北関東に湯坂タイプ、諏訪タイプ、その山奥に「三原田式」、東関東に「中峠式」に総括される各タイプを族生させ、同地的だが豊かな地域個性をもつ土器群が当初段階を飾った。その地域差が「揺藍期」加曽利EI式の眼目であった。それは地域集団の保守性と伝統固執の傾向を暗示するものだが、瞬くうちに広域化が進捗することを見るとき、中期社会の汎化、斉一化へ向う壮大な流れとエネルギーを感ぜざるを待ない。個性の時代から斉一化の時代へ、活力にみちたこのような地域組成を、平板な画一的な組成へと動かし、“汎関東”化をもたらしたものは何だったのか。土器の世界の不思議さを改めて感じ入るばかりである。