古代東国における墳墓の展開とその背景
仲山 英樹
( NAKAYAMA Hideki )
研究史の総括から3点の課題を設定した。それは、①火葬普及の度合の検討、②墳墓確認、遺跡の性格とその被葬者像の推定、③古墳時代からの墓制の展開、である。
そうした3点の課題に対する史料からの検討では、①天皇・貴族層には火葬は葬法として一般化せず、火葬が定着するのは11世紀以降であること。それも総ての人が火葬によったものではないこと。②庶民層では、火葬はまったく定着していないこと。③そうした喪葬のあり方は、階層毎に追及する必要があること。在地社会においても、一般的な庶民と「富豪層」などは区別が必要なこと。④従って、古代の社会一般として、火葬は定着していたとはいい難いこと、の4点が理解された。そのうち、①の点に関しては、黒崎直氏の検討(黒崎1980)を確認するものとなった。また、天皇喪葬を規範として墓制の変転に左右される貴族層の喪葬、という氏の指摘がきわめて重要な視点を合んでいることが確認された。
次に、古代東国における墳墓確認遺跡の検討と分類を行った後に、古墳時代からの墓制の展開、主として群集墳からの墓制の展開を検討した。まず、①東国の群集墳では、8世紀代までその利用が続いたものが予想以上に多いこと。②群集墳のあり方から、7世紀前半頃に喪葬に変化があったこと。その変化は、「世代内追葬」→「世代間追葬」とも呼ぶべきものであり、世帯共同体の家長的な中心人物のみが石室墳に埋葬されるようになったこと、の2点が推定された。次に、
IA類 火葬墓のみが群集している遺跡。
IB類 火葬墓が単独で確認された遺跡。
II類 火葬墓と土坑墓がともなって墓域を構成している遺跡。
III類 土坑墓のみが確認された遺跡(そのうち、集落内に単独で土坑墓が存在するIIIA類と、集落外に群集して存在するIIIB類の2類が認められた)。
というように類型化された墳墓確認遺跡の検討を行った。検討の結果、
1A類 群集墳の墓制の流れを汲む「家長」の墓の累積、その営墓集団は有力な世帯共同体。
1B類 IA類から派生した、土地の開発や私的領有を目的として開発地に進出したもの。
II類 やはり1A類から派生したもので有力な世帯共同体の家族墓。土地の開発や私的領有を目的とする他、免租や叙位をも射程に収めていた可能性がある。中心的な被葬者には、「家長」として男性と女性が認められる。
IIA類 集落を構成する集団の中核となる人物を被葬者とする。I・II類から変遷したものが含まれる。
IIIB類 集落を構成している集団の、一般的な構成員。ないし、庶民層。
というような、結果を得ることが出来た。
ここで検討の対象としたのは、主として古代東国の例であった。実際の問題として、古代東国の墳墓の総てが、上の3類で網羅できるものではなかろう。しかし、古代東国の在地社会において展開した墳墓の相当の部分が、上記の分類で説明できるものと考えている。また、その基本的な墓域の構造は、東国に限らず、全国の在地社会においても適応できるのではないかと予測している。
そうした3点の課題に対する史料からの検討では、①天皇・貴族層には火葬は葬法として一般化せず、火葬が定着するのは11世紀以降であること。それも総ての人が火葬によったものではないこと。②庶民層では、火葬はまったく定着していないこと。③そうした喪葬のあり方は、階層毎に追及する必要があること。在地社会においても、一般的な庶民と「富豪層」などは区別が必要なこと。④従って、古代の社会一般として、火葬は定着していたとはいい難いこと、の4点が理解された。そのうち、①の点に関しては、黒崎直氏の検討(黒崎1980)を確認するものとなった。また、天皇喪葬を規範として墓制の変転に左右される貴族層の喪葬、という氏の指摘がきわめて重要な視点を合んでいることが確認された。
次に、古代東国における墳墓確認遺跡の検討と分類を行った後に、古墳時代からの墓制の展開、主として群集墳からの墓制の展開を検討した。まず、①東国の群集墳では、8世紀代までその利用が続いたものが予想以上に多いこと。②群集墳のあり方から、7世紀前半頃に喪葬に変化があったこと。その変化は、「世代内追葬」→「世代間追葬」とも呼ぶべきものであり、世帯共同体の家長的な中心人物のみが石室墳に埋葬されるようになったこと、の2点が推定された。次に、
IA類 火葬墓のみが群集している遺跡。
IB類 火葬墓が単独で確認された遺跡。
II類 火葬墓と土坑墓がともなって墓域を構成している遺跡。
III類 土坑墓のみが確認された遺跡(そのうち、集落内に単独で土坑墓が存在するIIIA類と、集落外に群集して存在するIIIB類の2類が認められた)。
というように類型化された墳墓確認遺跡の検討を行った。検討の結果、
1A類 群集墳の墓制の流れを汲む「家長」の墓の累積、その営墓集団は有力な世帯共同体。
1B類 IA類から派生した、土地の開発や私的領有を目的として開発地に進出したもの。
II類 やはり1A類から派生したもので有力な世帯共同体の家族墓。土地の開発や私的領有を目的とする他、免租や叙位をも射程に収めていた可能性がある。中心的な被葬者には、「家長」として男性と女性が認められる。
IIA類 集落を構成する集団の中核となる人物を被葬者とする。I・II類から変遷したものが含まれる。
IIIB類 集落を構成している集団の、一般的な構成員。ないし、庶民層。
というような、結果を得ることが出来た。
ここで検討の対象としたのは、主として古代東国の例であった。実際の問題として、古代東国の墳墓の総てが、上の3類で網羅できるものではなかろう。しかし、古代東国の在地社会において展開した墳墓の相当の部分が、上記の分類で説明できるものと考えている。また、その基本的な墓域の構造は、東国に限らず、全国の在地社会においても適応できるのではないかと予測している。