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二子城跡発掘調査報告書

URL https://sitereports.nabunken.go.jp/90740
DOI 二次元コード
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DOI http://doi.org/10.24484/sitereports.90740
引用表記 岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター 2021 『岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書730:二子城跡発掘調査報告書』岩手県企業局他
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター 2021 『二子城跡発掘調査報告書』岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書730
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書名 二子城跡発掘調査報告書
発行(管理)機関 (公財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター - 岩手県
書名かな ふたごじょうあとはっくつちょうさほうこくしょ
副書名 第一北上中部工業用水道浄水場建設事業関連遺跡発掘調査
巻次
シリーズ名 岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書
シリーズ番号 730
編著者名
編集機関
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター
発行機関
岩手県企業局
(公財)岩手県文化振興事業団
発行年月日 20210312
作成機関ID
郵便番号 0200853
電話番号 0196389001
住所 岩手県盛岡市下飯岡11 地割185 番地
報告書種別
埋蔵文化財(遺跡等)-発掘調査・分布調査・資料調査等
資料タイプ Research Paper
発掘調査報告 掲載されている(発掘調査報告書総目録の掲載対象)
所蔵大学(NCID)
JP番号
他の電子リソース
備考
所収論文
所収遺跡
遺跡名 二子城跡
遺跡名かな ふたごじょうあと
本内順位
遺跡所在地 岩手県北上市坊舘地内
所在地ふりがな いわてけんきたかみしぼうだてちない
市町村コード 032069
遺跡番号 ME46- 2214
北緯(日本測地系)度分秒
東経(日本測地系)度分秒
北緯(世界測地系)度分秒 392007
東経(世界測地系)度分秒 1410810
経緯度(世界測地系)10進数(自動生成) 39.335277 141.136111
※当該位置周辺を表示し、同一名称の遺跡データが存在する場合は遺跡をポイント表示します。
調査期間
20181101-20181220
20190404-20190731
調査面積(㎡)
1655
10901
調査原因 第一北上中部 工業用水道 浄水場建設事業
遺跡概要
種別
集落
城館
時代
縄文
中世(細分不明)
主な遺構
竪穴住居
土坑
陥し穴
土器埋設
竪穴状
曲輪
柱穴
主な遺物
縄文土器
石器
石製品
土製品
陶磁器
特記事項
要約  今回の調査から、縄文時代、古代~中世、中世以降の遺構・遺物が確認された。縄文時代は、形状の異なる早期・前期・中~後期の陥し穴状遺構が確認され、水場に集まる対象を捕らえる狩猟場として利用された。また、縄文時代後期~晩期には断続的に小規模な集落が形成され、平成元年の物見崎遺跡で確認された竪穴住居群と合わせて北上川西岸の河岸段丘微高地上に分布することが分かった。中世二子城の時期の明確な遺構は確認されなかったが、少ないながら16 世紀の遺物が出土したことと西側と南側の深い谷に区切られた平坦地であることから、二子城の搦手口を抑える防衛上の要地であったと考えられる。中世以降は耕作による影響が大きく、地形改変も少なからず受けており、城館普請に関わる中世の痕跡はほぼ残っていない。

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