小河原遺跡群
田中 一穂
坂上 和弘
西山 要一
松川扇状地の扇端部に立地する遺跡群の発掘によって、竪穴住居跡30件余りや大量の遺物を伴う自然流路跡3条、近世の墓坑などの遺構を検出した。
遺物では、古墳中期(5世紀代)から平安中期(10世紀代)の須恵器・土師器の他に、刀子等の金属器や縄文期と思われる石鏃・凹石などの石製品等が出土した。
竪穴住居跡の時期を検討すると、扇状地の開発から5世紀中葉に始まることが明らかになった。同時にこれらが先端部の集落形成の始まりでもある。
その後、8世紀初頭ごろと9世紀前半の2つの盛期をもって集落は形成される。それは調査対象範囲の北端近辺から始まり、集落が次第に南へ移動する可能性も考えられた。
この集落に隣接する左願寺跡に関わる遺跡として重圏文の軒丸瓦片や高丘古窯跡群清水山窯跡で焼成されたと思われる平瓦片などが出土した。しかしながら、官衙とも初期寺院ともいわれるこの遺跡の性格やその時期などを明確にできるような成果は出ていない。
寛永通宝を六文銭として共伴する墓坑は人骨も検出された。これら人骨は4歳という幼年のものから老年まで様々で屈葬のような埋葬状態が多かったと推測される。報告が少ない地方における近世庶民の埋葬の資料として今後の活用が期待されるものである。
遺物では、古墳中期(5世紀代)から平安中期(10世紀代)の須恵器・土師器の他に、刀子等の金属器や縄文期と思われる石鏃・凹石などの石製品等が出土した。
竪穴住居跡の時期を検討すると、扇状地の開発から5世紀中葉に始まることが明らかになった。同時にこれらが先端部の集落形成の始まりでもある。
その後、8世紀初頭ごろと9世紀前半の2つの盛期をもって集落は形成される。それは調査対象範囲の北端近辺から始まり、集落が次第に南へ移動する可能性も考えられた。
この集落に隣接する左願寺跡に関わる遺跡として重圏文の軒丸瓦片や高丘古窯跡群清水山窯跡で焼成されたと思われる平瓦片などが出土した。しかしながら、官衙とも初期寺院ともいわれるこの遺跡の性格やその時期などを明確にできるような成果は出ていない。
寛永通宝を六文銭として共伴する墓坑は人骨も検出された。これら人骨は4歳という幼年のものから老年まで様々で屈葬のような埋葬状態が多かったと推測される。報告が少ない地方における近世庶民の埋葬の資料として今後の活用が期待されるものである。