倭政権の国境域防衛機構 -軍事的施策と宗教的施策-
Kojima Atushi
( 小嶋 篤 )
本研究では、倭政権の軍事的施策と宗教的施策を検討し、国境域防衛機構の全体像描写を試みた。軍事的施策の一つとして施行された古代山城の築城は、古墳時代後期より整備されてきた戦時侵攻体制( 軍事動員・物資備蓄) 上に存在しており、交通路や拠点的ミヤケの分布とも一定の相関関係をもつ。外敵襲来時の「戦場」となる筑紫洲北部では、『日本書紀』では古代山城築城記事に先んじて、防人・烽配備とともに水城築造が記載されるため、筑紫洲を縦走する南北路の閉塞が重要視されていることが分かる。次いで築城記事がある大野城と、その対面にある小水城群・牛頸丘陵は、水城を挟んで鶴翼状配置を採り、水城前面での外敵迎撃が基本戦略であったと把握できる。この主要迎撃地点で臨戦態勢を採っていたのが筑紫大宰である。筑紫大宰が動員する公的軍隊は、任地の筑紫国造軍が主力であり、同国造軍は鞠智城とも接続する南北路を利用して外征軍動員を重ねてきた実績がある。つまり、水城前面での外敵迎撃は戦術的優位だけでなく、軍事動員・兵站確保という戦略的優位も確保していたと評価できる。
一方で、外敵襲来が警戒される玄界灘航路の要衝・宗像地域は、古代山城分布の空白地である。宗像地域は古墳時代(四世紀)より倭政権が信仰してきた宗像神の坐す地であり、同地には充神民が居住してきた。古代山城築城期と重なる飛鳥時代後半(七世紀後半)までには神郡が宗像神に奉じられ、倭政権の宗教的施策として重要視されていたことが分かる。宗像郡郡司・宗像神社神主を同族のみで独占する宗像君(宗形朝臣氏)と、その服属集団である宗像部は玄界灘航路沿いの港湾に分布し、古墳時代中期以後、筑紫君とならぶ大規模動員力を古代山城築城期にも保持していた。つまり、宗像神が坐す神郡は、軍事と宗教の両面で守護された土地であったと評価できる。
総括すると、「戦場」となる筑紫での古代山城配置には、地質環境や交通路といった即物的な軍事目的だけでなく、①各国造軍を率いる氏族の歴史的実績や、②倭政権の国家的宗教体系も反映していると結論できる。
一方で、外敵襲来が警戒される玄界灘航路の要衝・宗像地域は、古代山城分布の空白地である。宗像地域は古墳時代(四世紀)より倭政権が信仰してきた宗像神の坐す地であり、同地には充神民が居住してきた。古代山城築城期と重なる飛鳥時代後半(七世紀後半)までには神郡が宗像神に奉じられ、倭政権の宗教的施策として重要視されていたことが分かる。宗像郡郡司・宗像神社神主を同族のみで独占する宗像君(宗形朝臣氏)と、その服属集団である宗像部は玄界灘航路沿いの港湾に分布し、古墳時代中期以後、筑紫君とならぶ大規模動員力を古代山城築城期にも保持していた。つまり、宗像神が坐す神郡は、軍事と宗教の両面で守護された土地であったと評価できる。
総括すると、「戦場」となる筑紫での古代山城配置には、地質環境や交通路といった即物的な軍事目的だけでなく、①各国造軍を率いる氏族の歴史的実績や、②倭政権の国家的宗教体系も反映していると結論できる。
小嶋 篤 2025「倭政権の国境域防衛機構 -軍事的施策と宗教的施策-」 『第13回鞠智城跡「特別研究」成果報告会』鞠智城跡「特別研究」発表要旨集
https://sitereports.nabunken.go.jp/en/article/125714