城柵との比較からみた鞠智城の管理・経営体制
Okazaki Reo
( 岡﨑 怜央 )
本稿は鞠智城と東北の城柵について、管理・経営体制の面から両者を比較することで、9 世紀における鞠智城の機能とその地域的な役割を明らかにすることを目的とする。
城柵は蝦夷支配の拠点として、補給が不安定な地域において蝦夷支配を展開することが想定された組織であった。その管理・経営体制においては、付属民である柵戸や夷俘が現地での人的・物的資源の生産・供給を担うことで、自律的な組織として機能した。また、この管理・経営体制を維持するため、城柵と柵戸・夷俘との間には、有事における相互協力の関係が成立していたことを確認した。
これに対し鞠智城は、大宰府の指揮下で対外防衛の機能を果たすことを目的としていたため、城柵のような自律性を発揮する必要がなく、実際にそのような管理・経営体制も構築されていなかったことを明らかにした。
次に、鞠智城の管理・経営体制に変化が生じる時期として、弘仁4 年(813) の大宰府管内での軍団兵士制の縮小に注目した。そして、考古学的な成果を踏まえつつ、これ以降の鞠智城では、周辺住民が城の管理・経営に必要な経営基盤として組み込まれ、経営に必要な人的・物的資源の生産・供給を担うようになったことを明らかにした。またこれによって鞠智城は、城柵と同様、自律的な組織へと再編成されたとみられることを明らかにした。
最後に、鞠智城が自律的な組織として再編成された背景として、当時の新羅に対する警戒感があったことを示した。また、この頃の鞠智城に不動穀が貯蓄されていた事実から、鞠智城が対新羅用の拠点として機能するとともに、かつ逃げ込み城としての機能を有していたとし、鞠智城と周辺住民との間には、城柵で見られたような相互協力の関係が成立していたと結論付けた。
城柵は蝦夷支配の拠点として、補給が不安定な地域において蝦夷支配を展開することが想定された組織であった。その管理・経営体制においては、付属民である柵戸や夷俘が現地での人的・物的資源の生産・供給を担うことで、自律的な組織として機能した。また、この管理・経営体制を維持するため、城柵と柵戸・夷俘との間には、有事における相互協力の関係が成立していたことを確認した。
これに対し鞠智城は、大宰府の指揮下で対外防衛の機能を果たすことを目的としていたため、城柵のような自律性を発揮する必要がなく、実際にそのような管理・経営体制も構築されていなかったことを明らかにした。
次に、鞠智城の管理・経営体制に変化が生じる時期として、弘仁4 年(813) の大宰府管内での軍団兵士制の縮小に注目した。そして、考古学的な成果を踏まえつつ、これ以降の鞠智城では、周辺住民が城の管理・経営に必要な経営基盤として組み込まれ、経営に必要な人的・物的資源の生産・供給を担うようになったことを明らかにした。またこれによって鞠智城は、城柵と同様、自律的な組織へと再編成されたとみられることを明らかにした。
最後に、鞠智城が自律的な組織として再編成された背景として、当時の新羅に対する警戒感があったことを示した。また、この頃の鞠智城に不動穀が貯蓄されていた事実から、鞠智城が対新羅用の拠点として機能するとともに、かつ逃げ込み城としての機能を有していたとし、鞠智城と周辺住民との間には、城柵で見られたような相互協力の関係が成立していたと結論付けた。
岡﨑 怜央 2025「城柵との比較からみた鞠智城の管理・経営体制」 『第13回鞠智城跡「特別研究」成果報告会』鞠智城跡「特別研究」発表要旨集
https://sitereports.nabunken.go.jp/en/article/125712
NAID :
Prefecture :
Iwate Prefecture
Miyagi Prefecture
Fukuoka Prefecture
Kumamoto Prefecture
Kagoshima Prefecture
遺物(材質分類)
学問種別
文献史学
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Created Date :
2025-03-29
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