神力坊と三巻上人の経筒 ―西日本の廻国経筒2―
足立 順二
今回は九州地方の廻国聖と経筒を取り上げる。その一人は薩摩の修験井尻神力坊で、戦国時代の廻国聖では、もっとも履歴のわかる人物である。この人物にかかわる弘治元年銘の経筒が茨城県と鹿児島県から出土している。この経筒と出土地の分析を行い、さらに同時代史料から、神力坊が単なる廻国納経の修験者ではなく、戦国大名島津氏の使者として大友氏に島津氏の口上を伝えるなど、大きな役割を担っていたことを指摘した。
人吉市南町からは、骨塔と呼ばれる石造物から、六角宝幢式経筒が発見された。骨塔は、人吉藩主相良長毎の供養のために、犬童玄俊なる人物が造立したものであった。玄俊はそれ以前に相良長毎の供養のために、廻国納経の旅をつづけ、遠く奥州松島の地にも供養碑を建てている。南町から出土した廻国経筒には、駿河三巻上人銘が彫られていたが、この上人号についても、勅許による僧号ではないかと考えた。この経筒は、人の歯を納めるために再利用した例でもあった。
ほかに九州地方の廻国聖についてもふれ、彦山や黒髪山などの修験者が、少なからずみられたことも指摘した。
人吉市南町からは、骨塔と呼ばれる石造物から、六角宝幢式経筒が発見された。骨塔は、人吉藩主相良長毎の供養のために、犬童玄俊なる人物が造立したものであった。玄俊はそれ以前に相良長毎の供養のために、廻国納経の旅をつづけ、遠く奥州松島の地にも供養碑を建てている。南町から出土した廻国経筒には、駿河三巻上人銘が彫られていたが、この上人号についても、勅許による僧号ではないかと考えた。この経筒は、人の歯を納めるために再利用した例でもあった。
ほかに九州地方の廻国聖についてもふれ、彦山や黒髪山などの修験者が、少なからずみられたことも指摘した。