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副書名 :
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シリーズ番号 :
発行(管理)機関 : 神戸市 - 兵庫県
発行機関 : 神戸市教育委員会文化財課
発行年月日 : 20060331
作成日 : 2014-05-26
子砲台跡に使用された石材の産地同定…………。(先山徹)……Ⅲ…………………………63 V.文献資料編……………………………………(高久智広)………………………94 幕末期<b>明石藩</b>の海岸防備と舞子砲台………………Ⅲ………………………………・………Ⅲ
副書名 :
巻次 :
シリーズ名 :
シリーズ番号 :
編著者名 : 田辺 眞人
発行(管理)機関 : 神戸深江生活文化史料館 - 兵庫県
発行機関 : 神戸深江生活文化史料館
発行年月日 : 19880501
作成日 : 2017-06-13
甲南麓では石材切り出しや水車業が発展しました。菜種油・そうめん。酒造りがさかんになりました。初め主に尼崎藩領だった神戸地方は、やがで18世紀半ばに多くは天領となりましたが、西神戸は<b>明石藩</b>領でした。西園街道と兵庫の湊で、神戸は交通の要地となり、古
副書名 : 明石公共職業安定所増築建築工事に伴う発掘調査報告書
巻次 : 3
シリーズ番号 : 387
編著者名 : 池田 征弘
発行(管理)機関 : 兵庫県教育委員会 - 兵庫県
発行機関 : 兵庫県教育委員会
発行年月日 : 20110322
作成日 : 2017-03-30
雲晴寺に所在する墓碑銘によると天保14年(1843)に没した人物である。「高武弘人久諶」は『<b>明石藩</b>旧臣録』の文久元年(1861)~元治元年(1864)にその名が見られる(木村2004)。④『文久年間<b>明石</b>町之図』(『<b>明石</b>郷土史料』収
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副書名 :
巻次 :
シリーズ名 :
シリーズ番号 :
発行(管理)機関 : 神戸市 - 兵庫県
発行機関 : 神戸市教育委員会
発行年月日 : 19860331
作成日 : 2010-09-29
谷に衣笠氏の居城、端谷城が築城される。端谷城址は乳在も完全な形で保存されており、室町時代の山城としては貴重な存在である。江戸時代の元和3年(1617年)に<b>明石藩</b>が新設され、櫨谷地域は<b>明石藩</b>領に編入される。享保年間(18
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副書名 :
巻次 : 2
シリーズ番号 : 32
編著者名 : 森岡 みゆき
発行(管理)機関 : 兵庫県教育委員会 - 兵庫県
発行機関 : 兵庫県教育委員会
発行年月日 : 19860320
作成日 : 2016-12-22
笠原忠真によって築城され、18代249年間<b>明石藩</b>の居城となった城である。小笠原一松平(戸田)−大久保一松平一本多一松平と城主を変え廃藩置県を迎える。その後、紆余曲折はあったものの<b>明石</b>公園として断続的に現在に至っている。昭和52年
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副書名 :
巻次 :
シリーズ名 : ふるさとよかわ
シリーズ番号 : 16
発行(管理)機関 : 三木市 - 兵庫県
発行機関 : 吉川町教育委員会生涯学習課
発行年月日 : 20050331
作成日 : 2020-01-28
木の別所氏が滅亡すると同時にこれらの武将も滅んでしまいました。近世になると、関ケ原の戦い以後、姫路藩、<b>明石藩</b>その後は、幕府領、旗本久留氏領、下野国壬生藩領、三草藩領、下総国古河藩領、上総国鶴舞藩領などに分れ、分割支配が進みました。明治22 年
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副書名 :
巻次 : 19
シリーズ名 :
シリーズ番号 :
発行(管理)機関 : 奈良文化財研究所 - 奈良県
発行機関 : 木簡学会
発行年月日 : 19971125
作成日 : 2021-03-11
掘機関兵庫県教育委員会4調査担当者渡辺昇︒大西貴夫5遺跡の種類城跡6遺跡の年代江戸時代末︱明治時代初め7遺跡及び木簡出土遺構の概要<b>明石</b>城は元和四年︵三全八︶に小笠原忠政︵忠真︶によって築城され︑一人代二四九年間<b>明石藩</b>
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副書名 :
巻次 : 28
シリーズ名 :
シリーズ番号 :
発行(管理)機関 : 奈良文化財研究所 - 奈良県
発行機関 : 木簡学会
発行年月日 : 20061125
作成日 : 2021-03-12
来寺内に存在する墓碑銘によって︑江戸時代初期以降の<b>明石藩</b>の主要な家臣が葬られた墓であることが知られていたが︑今回の墨書された木棺などの発見により被葬者を特定することができ︑墓石の銘から知られていた人物との対応や︑そ
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副書名 :
巻次 : 13
シリーズ名 :
シリーズ番号 :
発行(管理)機関 : 石巻市 - 宮城県
発行機関 : 石巻市教育委員会
発行年月日 : 19840331
作成日 : 2017-12-11
章とほとんど同一であり`相迎点は誤伝ないし歌詞の一部の脱治など伝承過程の所産と思われる︒この唄か地元の伝承にいう﹁<b>明石藩</b>御船唄﹂の系列に屈するのかそれとも伊予宇和島滞から将米された﹁仙台藩御船唄﹂の
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副書名 : (主)平野三木線緊急道路整備事業に伴う発掘調査報告書
巻次 :
シリーズ番号 : 353
発行(管理)機関 : 兵庫県教育委員会 - 兵庫県
発行機関 : 兵庫県教育委員会
発行年月日 : 20090323
作成日 : 2017-03-30
戸時代以降窟屋1号境の所在する窟屋付近は江戸時代には池野村(風土記・日本書紀に見える池野宮の遺称地と考えられている。)と呼ばれ、姫路藩・<b>明石藩</b>領などを経てきた。明治9年に高男寺村と合併し、志
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副書名 : 令和2(2020)年度
巻次 :
シリーズ名 :
シリーズ番号 :
発行(管理)機関 : 加古川市 - 兵庫県
発行機関 : 加古川市教育委員会 文化財調査研究センター
発行年月日 : 20230331
作成日 : 2023-04-04
織が泊神社とその末社である米田天神社の氏子である印南郡米よねだ堕村(現在の高砂市米田町米田)の田原家出身で、剣豪として知られる宮本武蔵の養子となり宮本姓を名乗り当時の<b>明石藩</b>主小笠原家に仕えたことが詳しく記されており、その他、泊大明神が17 か
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副書名 : 唐津市役所建て替えに伴う発掘調査
巻次 : 11
シリーズ番号 : 187
編著者名 : 美浦 雄二
発行(管理)機関 : 唐津市 - 佐賀県
発行機関 : 唐津市教育委員会
発行年月日 : 20210331
作成日 : 2023-07-06
高には継子がいなかったため寺澤氏は二代で改易される。二年間の幕府直轄領を経て、慶安二(1649) 年に大久保氏が播磨<b>明石藩</b>より入封する。以降、松平氏−土井氏−水野氏−小笠原氏と五代の譜代大名が治めることとなり、幕末を迎えた。大
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副書名 :
巻次 :
シリーズ名 :
シリーズ番号 :
発行(管理)機関 : 神戸市 - 兵庫県
発行機関 : 神戸市教育委員会文化財課
発行年月日 : 20130331
作成日 : 2018-09-27
11 43 V41 42 TJHGI12 13 M14 WU38 40 39 枝吉城跡船下城跡出合城跡<b>明石</b>城跡福中城跡城ヶ谷砦跡池谷城跡15 16 17 OPQSR<b>明石藩</b>舞子台場跡1.出合遺跡2.吉
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副書名 :
巻次 : 21
シリーズ名 :
シリーズ番号 :
発行(管理)機関 : 石巻市 - 宮城県
発行機関 : 石巻市教育委員会
発行年月日 : 19920331
作成日 : 2017-12-11
島御児神社神輿納め唄﹂は実は元来この神社の祭像に付いたものではないといわれる︒﹁石巻の歴史ー記述の﹁中村氏家譜﹂等によれば︑播州<b>明石</b>︵現兵庫県<b>明石</b>市︶の武士︑中村庄右衛門定春が︑この現石巻市九軒丁に移住したのは︑延宝六年( ‑六七八︶六月であるが︑その頃の門脇町二丁目︑三丁目︵旧称九後ヵ浜︶は千石船の船頭や水主たちによって占められていたという︒地元の廻米問屋" 2 9 等の委託による帆待荷など︑別途の特別収入が増えてくるにつれて男たちは酒色におぽれ遊典にふけって︑生活が怠侑に流れる者が続出したので︑周囲や家族たちはその子弟たちの生業教育として技能を身に付けさせようと職種を選び︑九軒丁の御座船大工棟梁役の中村庄右衛門の許へ競って弟子入りをさせるに至ったと石巻市文化財だょり( ! C l いう︒その造船技術者の脊成に当って︑共に習得されたのが︑明石溜の御船歌であったと伝えている︒なお︑石巻御船歌は︑戯太閤による朝鮮侵攻の折りに︑政宗公が瀬戸内海において軍船を建造したときに歌われたものとの説がある︒r 御船歌﹂といわれるものは︑単に舟唄︵船唄︶という船漕唄などの労働の唄ではなく︑船に関わる儀式とか祭礼︑例えば将軍家︑公卿︑大名たちの乗船に際したときとか︑官船の起工式︑進水式などにも唄われた一種の祝い唄であり︑船霊祭のときも︑大名たちの船遊びにも唄われるものとされる︒全国の各地にも﹁御船歌﹂の幾つかが伝承している︒中村氏により指祁された﹁御船歌﹂はその子弟たち造船技術関係者によって伝承されたが︑この唄は父祖代々︑中瀬の村上造船所で慟く︑主として門脇在住の船大工たちにより継承され︑造船所における新造船進水式などの祝宴にあって︑何時のころからか︑宴が閉じられる頃合いに︑棟梁など年荘の上座から唄い出される慣習となってきた︒この唄が出されれば︑いかに宴席が乱れていようとも︑いかなる酪酎者も︑きちんと正座をし︑盃を伏せて飲酒を止め︑全員が畏って威儀を正す︒唄い出しの人は歌詞の一番と二番の第一節まで独りで唄い︑そのあとは唱和がされる︒この唄が演唱されることは宴の終結を意味し︑何人といえども盃を手にすることはできないという不文律があって︑この恨行は長年にわたり守られてきたといわれる︒この御船歌がのちに鹿島御児神社の神輿納めに際して︑門脇の氏子たちにより唄われ初めたものか︑あるいはもともと古くから鹿島御児神社に継承され来たったものか︑など確認を得ることはできない︒一説にはもと日和山の南麓にあった社殿を現在地に造営遷宮された享保十九年︵一七三匹︶以降︑神社に発生されたともいわれ︑また明治二十年から三十年代にかけて門脇の氏子たちにより神楔納め唄として移ったとの説も有力である︒この神社の氏子総代であり︑村上造船所の家系者で永年勤続され役貝であった︑﹁御船歌﹂すなわち﹁神輿納め唄﹂伝承者の村上定一郎氏︵明治四十一年生︶による解釈や︑その他を総合してみると︑中村庄右衛門により相伝された村上造船所関係者の氏子たちによって︑鹿島御児神社の神輿納め唄として転用されたものと考察せざるを得ない︒この歌の歌詞の内容は︑御船歌としてふさわしい詞索も入った正月の祝い唄である︒歌詞と曲調の格調の高さと厳正な歌唱法に醸し出される粛然たる裳囲気は︑宴席の乱れを正してきた慨行とともに︑造船業者として︑また鹿島御児神社氏子としての地縁的︑同業者的結合となって大きな誇りとなったわけであろうし︑地域的な良俗としても伝承すべきものであろう︒門脇地区の氏子たちの家から輿丁の供奉人を出すには︑十五オから十九オほどの若者が選抜されたが︑神輿を界げることを大きな名脊として︑またその時点で地域からも一人前として認められていたといわれる︒祭典の日は神輿納めにより解散をしたみらいが︑翌日の午後は直会︵庭固めといった︶があり︑もとは漁師の組は救難所にて︵祭りの行列では先陣を担う︶後陣を担った毅人たちは社務所において︑それぞれが分別して我を張って労をねぎらった︒先陣組と後陣組とは常にも競争意識の気概を持ち続けてきたといわれる︒﹁施島御児神社神輿納め唄﹂は︑現在全国に流布される民謡俗曲の類からみれば︑相当古調を有しているとみられ︑特に初春の祝い唄らしい品格をもち︑調子の流れに堂々たる勢いが感じられ︑壮煎さがみられる︒謡曲調とみられるのは古調だからで︑ところどころに新しい民謡調も程良く編み合わされ︑こうした古謡にしては親しみが涌き︑開きやすく︑節を長く引伸ばすところはいわゆるゆすりが入り︑語尾が尻上りになったり︑語りの口調になる個所もある︒各節の結ぴに﹁ヘヘエーイエイ﹂または﹁ヘヤーラー︑ヤーラエイ﹂という掛声が入るが︑唄い手本人が掛けている︒こうした力の入った掛声などは︑これが御船歌なんだと︑納得できる曲節で︑語意も判然とし︑唱和されているときも︑よく股合している︒さすがに壮直厳粛な気分にさせられる︒この﹁御船歌﹂だった﹁神輿納め唄﹂の系諮をさぐるには︑何んとしても前述した﹁明石藩御船歌﹂および︑宇和島藩に伝承されていると思われるr 仙台藩御船歌﹂の夜科と︑演唱の実際を収録されたカセットテープなどを入手したいと考え︑兵躯県教育委貝会と愛媛県教育委貝会に行科等を添えて問合わしたが︑先に愛媛県から︑のち兵匝県から結局該当のものが見当らず︑伝承されないことが確認された︒系諮についての研究調査は以後に侯たねばならない︒地域として至近にある﹁御船歌﹂に松島町水主町に伝わったという﹁松島御船歌﹂がある︒幸い明治二十四年生れの故石森善七氏による録音テープがあったが︑歌詞︑曲調ともに﹁石巻の御船歌﹂とは全く異なっており︑極めて古調で参考となる個処もみられなかった︒この歌は脱長のころ︑伊予宇和島瑞主伊達秀宗公︵政宗公の長子︶が御水主頭の西岡七右衛門を伴って松島を遊笈した折に︑海上において歌われたものと伝え︑短歌と長歌があり︑長歌には松島口説が歌い込まれている︒﹁鹿島御児神社神輿納め唄﹂はこれまで︑通常二番の歌詞まで唄われていて︑三番の歌詞までは続かなかったといわれる︒一番の歌詞は︑岩手県紫波郡都南地方で一' ‑いわ唄われた﹁乙部御祝い﹂や花巻市笹間地方の﹁ご祝い﹂に相似しているところがあり︑二番の歌詞は︑亘理郡山元町山下地域から県下に流布した﹁えんころ節﹂の歌詞と同様のところがあり︑小界はあっても同系の祝い唄とみられる︒なお三番の歌詞については︑各夜科等で語意の解釈に小異があり︑宛字などの用い方が異なっているので統一することが必要と思われる︒総ぺて考察するに︑極めて廿重な歌謡であり地域の無形民俗文化財として保設伝承が必要であろう︒11 石巻市文化財だょり調査に至る経過新金沼遺跡を含めた周辺地域に︑多砒の鉄滓が散布していることは︑以前よりヽ知られていた︒平成元年( ‑九八九︶︑仙台湾商規格道路建設に伴う遺跡分布調査により︑付近の畑地から土師器片︵栗囲式︶が発見平成三年度新金沼遺跡埋蔵文化財発掘調査報告調査参加者相澤利喜子佐藤ゆきの酒井消輿渡辺キミ子遺跡所在地石巻市蛇田字福村南•新金沼•太田切・芋殻町調査対象面積商規格道路アクセス道七︑五八七︐m ︵うち市道分七七五︐m を含む︶調査期間平成三年七月五日1 十一月三十日調査主体石巻市教脊委貝会調査担当者石巻市教育委員会社会教育課文化係学芸貝木葬二︑調査実施要項亮され︑新金沼遺跡は︑福村・太田切地域を含めた地域として︑改めてその範囲が設定された︒それに伴い︑仙台湾嵩規格道路︵三陸縦貫自動車道矢本・石巻︑石巻北道路及ぴ仙台束道路︶建設との関わりから︑当該地域内における埋蔵文化財の確認調査の必要性が生じることとなった︒このため︑石巻市教育委貝会は︑平成二年初頭より建設省仙台工事事務所︑︷呂城県石巻土木事務所︑宮城県教育委貝会との協議を狙ねた結果︑石巻市蛇田における6 地点( A I F 地点︑第2 図参照︶で事前調査を実施する運びとなり︑平成三年四月よりこのための準備が開始されこ°t 遺跡周辺の環境新金沼遺跡の立地する蛇田地域は︑標高一ーニm 程度の沖積地で現況は水田︑宅地︑もしくは畑地である︒ここより北西約︱‑k m の地点には︑奈良•平安時代の集落跡や窯跡等を検出した河南町関ノ入遺跡( 1 ) や︑長者館跡( 2 ) を擁する須江丘陵がある︒また︑西方約= ‑k m には矢本町赤井逍跡( 3 ) があり︑弥生~ 奈良•平安時代にかけての遺構、遺物が発見されている︒一方︑南束に広がる石巻市内でも︑多くの選跡が確認︑調査されている︒主なものとしては︑昨年発掘調査が行われた田道町遺跡A l C 地点があり、古墳~奈良•平安時代の集落や建物跡等が検出されているほか︑五松山洞窟( 4 ) からは古頃時代を中心とする骨角器︑金城製品およぴ人骨等が発見されている︒さらに︑稲井地区の丘陵地に存在する越田台遣跡の発掘調査( 5 ) でも柱痕と考えられるピットに伴って土師器が出土している︒これら以外にも︑市内を含めた周辺地域には︑貝塚や館跡などの遺跡が確認されており︑広範な分布が認められる︒新金沼遺跡を含め︑平野部における遺跡の立地に目を向けてみた場合︑それらの大部分が沖積低地上の微高地に立地していることがわかる︒石巻平野を形成するこのような沖積地は︑主に数本の浜堤帯とその間を埋める三︑勝八小又島泉正久美子究男西松條J I I 芳利子克石巻市文化財だょり12 B地点北側トレンチ土屠説明I .I O Y R4 / 4褐包I : I I .I O Y R3 / 1 / . I . ¥褐色:1 : n t . I O Y R2 / 1 t / i 1 1 t : ! . ¥色土I V . I O Y R3 / 1 t M ' t : . 1 . 1 褐色:t V . I O Y R2 / 2t i 渭熱褐色土¥' 1 . I O Y R5 / 2灰貨褐色シルトA地点第ートレンチ(翡査区北側)土層説明I .7 . 5 Y R6 / 2砂買灰オリープ色土(砂伐多浜混人)I J . I O Y R2 / 1 粘f ' t / ! . ¥色:I : U la . I O Y R3 / 1t i 濱黒褐色:I : ( 砂れ多は、砂m 炎黄褐色粒花干混人)U lb . I O Y R3 / 1t l i ' i ' t : . 1 . ¥褐色土(砂拉多炊、5 Y 5 / J 砂m 天オリープ色プロックを比校的多<i l l 人)I V .S Y5 / 2 ( 一部7 / 3 ) 1 火オリープ( i . 1 1 ) Y i . ) 色シルト( t / i 釦. I . ¥色プロック多枯混人)V . 7 . 5 Y R3 / 1t l i f ' t 開褐色上(砂拉多i , t 混人)I I . 7 . 5 Y R2 / 1枯質焦色土o n 水1 1 1 ・1 : . 酸化鉄J t 校的多<i 比人)I I . 7 . 5 Y4 / 2I 火オリープ色シルト(地i l l 土)..'囀r ・・●‑. . l 口¥f ゞ心..曹`・‑・・・・・: . . 、" : ‑・・{ ‑: ; f ; ・・・・・‑‑‑‑‑;. . . ‑‑.. 、‑. ・・ー・・‑‑・.各調査地点トレンチ設定図゜1 0 0 m 調査の概要A . B 地点︵第2 図︑第1 図版︶今回の調査で最初に実施した地点であり︑石巻市蛇田字太田切五九番地ー六O 番地に位置する︒現況はゲートポール場となっており︑標尚は約一.八m を測る︒調査方法は︑幅ー︱‑m のトレンチを設定した後︑重機︵バックフォー︶により両地点の表土を掘削した︒表土を約一m 掘削した時点で湧水を確認し︑さらに二o l 三O c m の深さで地山の黄褐色シルト( 8 ) が露呈した︒トレンチ内は三0 分程で四O c m 以上の湧水が認められ︑エンジンポンプをフル稼働させなければならない状況であり︑迅速な調査が要求された︒遺構︑遺物等は全く認められなかったが︑地山面より平木類と考えられる植物逍存体が微祉ながら確認され︑かっては低湿地であったことが窺われる︒C 地点︵第2 図︑第1 図版︶C 地点は石巻工業港曽波神線計画道路用地およぴその隣接地分の調査として実施された︒地番は石巻市蛇田字芋殻町九番地︑個人住宅の敷地内であり︑標高は約一.七m を測る︒調査は発掘区南北方向に逆L 字状のトレンチを設定し狙機による表土掘削を四︑低湿地から成り立っている回︒これは︑北上川と海岸部からの土砂の堆積・没食作用によるものと考えられ2 ︑過去における人間生活と密接に関わりあっていたと考えられるのである︒( q 石巻市文化財だょりA 地点c 地点D 地点D 地点E 地点第1図版各調査地点発掘状況行った︒約一I l l 掘り下げたところで地山の黄褐色シルトが館呈し︑同時に湧水が認められた︒逍構︑逍物等は全く確認されていない︒D 地点︵第2 図︑第l 図版︶市道芋殻町境塚線沿いの水田に囲まれた畑地に位囮し︑地番は石巻市蛇田字新金沼四七0 番地で︑標窃は一.九m を測る︒調査区北側緑辺部に沿って︑重機により幅三m のトレンチを入れたところ涌水が認められた︒しかし︑調査区市測に向かって地山而の上昇が認められたため︑最終的には︑第3 図のように掘削するに至った︒表土の瞑さは約一m で︑湧水はほとんど認められない︒また遺構︑逍物も皆無であった︒︵第ー図版中には遺構らしいシミが写っているが︑これらは後世に掘り込まれた用水路等の跡である︒︶E 地点︵第2 図︑第l 図版︶高規格道路アクセス迫と国道一〇八号線が合流する地点付近に位置し︑地番は石巻市蛇田字五軒屋敷十七番地で︑栖窃は一.七m を測る︒調査区北側は湿地となっており︑重機によりトレンチを掘削したところ多砒の栂水が認められた︒表土のI I J さは約一I l l であり︑逍構︑雌物は全く検出されていない︒F 地点︵第2 図︶A 地点の北束約一五0 m に位爵し︑地番は石巻市蛇田字新金沼地内にある︒周囲は全て水田であり︑揉高は一.八石巻市文化財だょり( 1 4 ) 第2図版遺物集中地点の状況m を測る︒トレンチを重機により掘削し︑約一m の深さで地山面を露呈させたが︑遺構︑遺物等は全く検出されなかった︒調査結果から以上のように︑平成三年度の確認調査では︑何ら遺構︑遺物は発見する事ができなかった︒とはいえ︑A 地点の北方約二五0 m ︑F 地点の北東約五0 m には︑土師器の濃密な散布が認められている地点︵第2 図斜線部分︶があり︑埋蔵文化財に関する付近一帯の状態は︑六か所の調査を終了した時点においても未だ判然としない状況にある︒一方︑D 地点における陸地の存在は︑遺物集中地点の状況新金沼遺跡における遺物の散布は国道1 0 八号線︵第2 図右上︶に沿って極めて他かながら広範囲に散見されている︒しかし︑平成元年の遺跡踏査において発見された遺物集中地点︵第2 図版︶からは︑多祉の土器片が見られた︒この地点は現在畑地となっており︑標高一.九八m を測る︒ここより北西へ行くほど様嵩は嵩くなり︑最も高いところでは二.二m を有し︑この付近では最高値を測る︒第4 図に掲載した土器片は︑この地点より表採されたものである︒士師器の破片であり︑復元も困難であったが︑実測図を提示し︑口緑部の傾斜と器面調整等により︑器種を推定したものである︵第4 図①ー③︶︒①口縁部破片と考えられる︒口唇部の五︑遺跡周囲の古閉境を改めて見直す必要性を提示したと言えよう︒今回の調査で韮要と考えられる問題は︑新金沼遺跡を含めた周辺地域の旧地形の多くが︑湧水を伴う低湿地であり︑人間の居住にあまり適さないにもかかわらず︑明らかな人間の活動の痕跡と考えられる状況が確認されたと言うことである︒当該地域におけるこのような低湿地に︑かつても同様な状況が現出されていたかどうかは判然としないが︑周辺地域が沖梢地であり︑海抜も二m までの範囲にとどまっていることからみても︑遺跡と水との関係は切り離せないことが考えられ( 9 ) 0 る②①③゜三三ロ合:冒三二こ(玉口峙雄・小金井蜻1 9 8 4r 土師器・須恵器の知紐』東京美街より転戟)遺物集中地点表採土器片実測図1 0 c m 第4 図( 1 $ 石巻市文化財だょり第5 図石巻平野微地形概略図. I I 河川・湖沼旦旧河道口低湿地ロ自然堤防•浜堤•砂地地地□二冒[ 段石巻平野と遺跡とのかかわりについて今回の発掘調査では6 地点を調査したにもかかわらず︑人間活動を衷付けるような遺構︑遺物の発見は見いだすことはできなかった︒しかし︑新金沼遺跡地内には先に紹介したように遺物集中地点が存在しており︑当該地に遺跡が実在している可能性は強いと考えられる︒石巻の平野部︵特に沖積平野︶には数多くの遺跡が立地しているが︑それらの立地を考えた場合︑浜堤︵9 ‑の存在は︑狐要な地位を占めてくると言えるだろう︒石巻を含む周辺地域の地形は︑大きく山地︑河岸平野︑海岸平野に分けられる︒その中の特に平野に滸目してみると︑次のように説明することができる︒六︑残存は僅かであるが︑頸部に貼り付けによる突帯が巡り︑指頭圧痕が認められる︒外面は横位のハケメ︑内面はミガキが施されている︒②甕形土器の口縁部と考えられ︑ナデを主体とした調整が認められるが︑外面胴部にはミガキも認められる︒③堅緻な作りの二煎口緑壺と考えられる︒口緑l 頸部にかけての破片であり︑外面は縦方向のハケメ︑内面はミガキが施されている︒以上の破片は製作技法上から見て︑塩釜式である可能性が強いと考えられる︒また︑この地点では︑栗囲式と考えられる土器片も採梨されており︑当該地における古柑時代の人間活動の痕跡が窺われる︒︹河岸平野︺河道・旧河道沿いの自然堤防と、その間や丘陵•山地との間の後背湿地より形成されているものである︒市内では蛇田︑中里において︑浜堤列を北上川が蛇行しながら︑背後から没食したことが判明している( 1 0 ) 0 ︹海岸平野︺北上川河口附近から西へ広く発達しており︑牧山・鰐山・須江丘陵を連ねる一i l t i で河岸平野との境界を成している︒蛇田では︑北上川の浜堤列への没食によって︑旧河道沿いに小撲が生じている︒平野部では特に三1 四条の浜堤帯とその間を埋める湿地帯が存在しており︑特にこの浜堤帯上に遺跡の立地が認められる( 1 1 ) 0 以上のように︑石巻平野の形成には︑北上川と海岸部からの相互の堆積︑没食が大きくかかわっていることがわかる︒石巻平野は約一万八千年前には一四0 m ︑一万年前には一1 0 ‑四0 m 程現海面より低く︑七千年前に同じ甜さとなり︑その後︑数m 以内の昇降を繰り返しながら現在に至っているー1 2 ) 0 縄文時代中期︵五O O O B . p . ︶I 後期︵四O O O B . p . ︶にかけての平野部は︑付近に潟湖︵ラグーン︶を擁する遠浅泥質の海岸を望む地形であったと考えられている団︒その後︑海退によって一部が陸化し︑土器製塩などが行われるようになった5 ︒内陸部の浜堤上に立地する矢本町赤井逍跡( 1 5 ) や小松遺跡( 1 6 がらは弥生時代後期︵二O O O B . p . ) のものとされる土器等が出土しており︑人間活動が営まれたことを示している︒石巻市文化財だょり16 石巻平野に農耕が行われていたことが判明しているのは古項時代( ‑五O O B p . ) からである︒前出の赤井遺跡や小松遺跡をはじめとする多くの遺跡から土師器が出土しており︑河南町須江諌塚遣踪からは竪穴式住居跡群のほか︑鉄製鎌等も発見されている( 1 7 ) 0 立地も内陸から海岸部へと広がり︑当該期には︑ほぼ全ての浜堤帯において人間活動が行われていたことがわかってい( 1 8 ‑︒る以上のように︑石巻平野における遺跡の形成は︑平野︵沖積地︶の成り立ちと密接に関係しているといえる︒言い換えれば︑土地の形成に伴って生業が拡大されてきたとも言えるのである︒このような意味において、石巻平野における遺跡立地の移り変わりは︑すなわち石巻平野の開発の歴史と考えることも可能であろう︒ある場所に人間が何らかの活動を開始するにあたっては︑その要因となるものが必要である︒このような意味において︑土地形成という視点もまた韮要な意味をもってくると言える︒一方︑遺跡の立地と密接に関わると考えられる沖積地上の微地形は︑現段階においてはあまり判然としない︒また︑逍跡の存在を探る上にもこのような徽地形の観察が大きな意味を占めてくる︒このような問題を明らかにしていくためにはやはり発掘調査による観察を一っ︱つ積み重ねて行くべきであろう︒以上のような点を踏まえて︑今後はさらに遺跡と地形との関わりを調ぺ︑石巻における埋蔵文化財調査に役立てて行きたいと考えている︒注( 1 ) 河南町教育委貝会一九九一﹁須江関ノ入遺跡﹂r 河南町文化財調査報告困第四集﹄( 2 ) ︵﹈︶と同じ( 3 ) 矢本町教育委貝会一九八七﹁赤井遺跡第一次発掘調査報告﹂﹃矢本町文化財調査報告第一北﹄( 4 ) 石巻市教育委貝会一九八八﹁五松山洞窟遺跡ー発掘調査報告﹂r 石巻市文化財調査報告第三集﹄( 5 ) 木村敏郎一九八三﹁越田台逍跡発掘調査報告( 1 ) r 石巻市文化財だより︵第一二号︶﹄石巻市教育委貝会( 6 ) 宮城県企画部開発計画課一九六六﹁石巻平野の地盤地質﹂財団法人東北経済開発センター( 7 ) 宮城県企画部土地対策課一九八三「土地分類基本調査石巻•寄磯.金華山﹂( 8 ) ︵7 ) ﹁土地分類基本調査石巻・寄磯•金華山」に添付されている土じょう図によれば︑新金沼遺跡周辺の土壌は数中統︵祖粒灰色低地土壌︶に属する︒( 9 ) 菅原祐輔一九八八﹁石巻の歴史第一二巻自然絹第一章土地﹂石巻市史編さん委員会によれば︑浜堤とはr 波によって打ち上げられた砂が︑海岸に平行してやや高まった堤防状にできる砂堆︵さたい︶である﹄と説明されている︒( 1 0 ) ︵7 ) と同じ( 1 1 ) ︵7 ) と同じ( 1 2 ) ︵7 ) と同じ( 1 3 ) ( 3 ) と同じ( 1 4 ) ︵3 ) と同じ( 1 5 ) ︵3 ) と同じ( 1 6 ) ( 3 ) と同じ( 1 7 ) 河南町教育委員会一九八二﹁須江腺塚遺跡﹂r 河南町文化財調査報告掛第一集﹄( 1 8 ) ( 3 ) と同じ石巻市文化財だょり石巻市教育委貝会では︑平成︳︱‑年四月から平成四年一月まで田道町遺跡の発掘調査を実施しました︒その結果︑古瑣時代前期︵四世紀後半︶と奈良時代の終わりから平安時代の初め︵八世紀後半から九世紀前半︶の二つの時期の遺構・遺物が多数出土しました︒平成四年三月現在︑報告世の刊行に向けて整理作業中です︒以下でその発掘調査の概略を速報します︒なお︑調査にあたり特段のご配感を賜った株式会社旭産商︑石巻市煤業協同組合︑地主の今野勝樹氏︑武内きみ子氏︑調査に協力をいただいた東北歴史衣料館︑石巻文化センター︑石巻市建設部道路課︑佐藤敏幸氏︑茂木好光氏︑三宅宗議氏︑調査に指導を賜った石巻市文化財保護委貝︑宮城県教育庁文化財保護課︑以上の機関•各氏に本誌上を借りてお礼申し上げます︒田道町遺跡発掘調査速報石巻市教育委員会石巻市文化財だょり⑱田道町遺跡について田迫町遺跡は︑石巻市田迫町一丁目から二丁目にかけて存在する遺跡で︑栖森が一.五から一.八メートルの沖積平野の微高地上にある︒古項時代から奈良・平安時代にかけての遺物が出土する遺跡として知られており︑過去に古項時代︵南小泉式︶の土師器壺の完形品が出土している︒近くには︑扱柑土器の出土している清水尻遺跡、奈良•平安時代の土師器が散布している横堤遺跡がある︒ニ︑調査地点及び調査経過今回の調査は︑A . B . C の三地点で実施した︒︵地図参照︶A 地点従来田道町遺跡の範囲外と考えられていたところで︑宅地開発の事前協謡が石巻市教脊委貝会にあった段階で︑その職貝が現地踏査を行ったところ︑土器片の散布が確認され︑田追町遺跡がこの付近まで延ぴてきている可能性が高くなった︒そこで︑開発に先立って︑まず遺構確認調査を実施することとなり︑平成三年四月から事業者負担で発掘調査を開始した︒その結果︑古瑣時代︑奈良時代末から平安時代初にかけての掘立柱建物跡︑竪穴式住居跡︑土堀︑井戸跡︑溝跡等が検出された︒これらの遺構の保存について事業者・宮城県教育委員会•石巻市教育委貝会の三者で協餓したところ︑造成計画地のうち道路となる部分及ぴ逍構の沿密な部分約二︑0 0 0 平方メートルについて記録のための発掘調査を行うこととなヽり︑残りの部分は盛土して遣構を保存することとなった︒五月中旬から調査を開始し︑途中長雨に悩まされ︑また︑予想外に遺構の数が多く当初の予定を超えて︑八月二十四日に調査を終了した︒B . C 地点宅地開発及ぴアパート建設の事前協謡が石巻市教育委只会にあった︒A 地点のすぐ近くであり︑従来の田迫町遺跡の範囲内でもあり︑さらに遺物の散布も確認されたので︑A 地点同様開発に先立って︑まず遺構確認調査を実施することとなり︑平成三年九月から事業者負担で発掘調査を開始した︒その結果︑B 地点は遣構・逍物はなかった︒しかし︑C 地点から古代の掘立柱建物跡︑竪穴式住居跡︑土城`溝跡等が検出された︒これらの遺構の保存について事業者・宮城県教脊委員会・石巻市教脊委貝会の三者で協誤したところ︑遺構の存在していないところに計画していた公園を遺構のあるところへ移動︑遺構の一部をそのまま保存し︑残りの約二︑四0 0 平方メートルについて記録のための発掘調査を行うこととなった︒十月末から調査を開始し︑平成四年一月二十一日調査を終了した︒三︑調査要項A 地点調査主体石巻市教育委貝会調査面積約二︑0 0 0 平方メートル調査期間平成三年四月五日から平成三年八月二十三日まで石巻市教脊委貝会佐藤滋佐々木調査員淳芳買英実木邪充宮城県教脊庁文化財保設謀佐藤則之菊地逸夫古川一明吾要浚典窪田忍長谷川信雄邸橋盛雄大沼忠雄鈴木友春穀田吉夫小泉文男亀山美代子秋沢ちよ子松川利克八島党小泉久美子勝又正男佐藤ゆきの酒井消輿相沢利野子西条芳子渡辺キミ子B . C 地点調査主体石巻市教脊委貝会調査面積約三︑0 0 0 平方メートル調査期間平成三年九月二十四日から平成四年一月二十一日まで石巻市教脊委貝会佐々木淳芳買英実岡道夫木邪亮長谷川信雄鈴木友春穀田吉夫相沢敏郎亀山美代子秋沢ちよ子松川利克八島究大友隆哉勝又正男佐藤心一目黒たみ子山上カチ子四︑発見遺構A 地点掘立柱建物跡七棟︵奈良時代末から平安時代初︶︑竪穴式住居跡二十九軒︵古作業員調査員作業員岡迫夫瑣時代前期八軒︑奈良時代末から平安時代初七軒︑時期不明十四軒︶︑井戸跡二基︑溝跡︑土堀等を多数検出した︒C 地点掘立柱建物跡十三棟︵奈良時代末から平安時代初︶︑竪穴式住居跡五軒︵古項時代前期一軒︑奈良時代末から平安時代初四軒︶︑溝跡︑土檄等を多数検出した︒なお︑掘立柱建物跡は整理が進めば︑もっと増える可能性がある︒五︑発見遺物土器及び土製品土師器は︑古項時代前期︵塩釜式︑四世紀後半︶のもの及ぴ奈良時代末から平安時代初︵国分寺下陪式︑表杉ノ入式︑八世紀後半から九世紀前半︶のもの多数が出土した︒須恵器は︑奈良時代末から平安時代初︵八世紀後半から九世紀前半︶のもの多数が出土した︒土製品は︑土錘・紡錘車等が出土した︒金屈製品C 地点の奈良時代末から平安時代初の竪穴式住居跡から銅製帯金具が一点出土した︒また︑鉄製の刀子︑紡錘車︑釣り針等が出土した︒木製品C 地点から木簡が一点出土し︑また︑柱材が残っている柱穴があり︑六点とりあげた︒石器アメリカ式石鏃が一点C 地点から出土している︒⑲石巻市文化財だょり◀器六︑まとめ今回検出した遺構及ぴ出土した遺物は︑古布時代前期と奈良時代末から平安時代初のものである︒古項時代前期は︑この付近は集落であったと思われるが︑奈良時代末から平安時代初にかけては︑木簡や帯金具のような特殊な逍物が出土したことや一辺が八メートルを超えるような大型の竪穴式住居︑多数の掘立柱建物があり︑単なる集落とは考えにくい︒しかし︑現段階ではその性格を確定するところまで整理作業が進んでいないので︑現在鋭意整理作業を進めているところである︒台︵古墳時代前期︶◀土錢︵奈良時代末1 平安時代初︶◀銅製帯金具(奈良時代末~ 平安時代初)" ' `◀高坏(古墳時代前期)◀土錘(古墳時代前期)◀鉄製紡錘車(奈良時代末~ 平安時代初)◀鉄製釣針(奈良時代末~ 平安時代初)石巻市文化財だょり( Z Q ◀渡波︶・\②法巡山宮殿寺このお寺は湊梅深寺の第十世食州金悦和尚を開山として元和五年( ‑六一九︶に開かれたと伝えられています︒しかし︑明治一六年( ‑八八三︶の火災により堂宇は消失し︑現在の本堂は昭和一七年に再建されたものです︒宮殿寺の山門の前に三叉路があります︒このうち長浜海岸に向かう真ん中の道を進んでください︒二つ目の四つ角を右に曲がると赤い大きな島居が目にはいって①渡波駅石巻線は︑明治四四年( ‑九︱‑︶に第四回の文化財めぐりは︑ちょっと足をのぱして渡波方面を歩いてみましょう︒渡波町は︑天文年中( + 六世紀後半︶に佐々木肥後によって開拓されたと伝えられています︒.さて︑J R 東日本石巻線渡波駅を起点として出発しましょう︒工事が始められ︑大正元年( ‑九︱二︶仙北軽便鉄氾として開通したのが始まりでした︒その後︑大正八年( ‑九一九︶日本国有鉄追石巻線となりました︒しかし、当初は石巻•小牛田間の開通であったため、稲井•渡波・女川の各町が路線延長の請顔に奔走し︑昭和︱四年︵一九三九︶十月に現在の石巻線の全線が閲通したのです︒昭和六二年( ‑九八二︶四月に民営化され︑J R 石巻線渡波駅として現在に至っています︒さて︑渡波駅を降りたらすぐに右に歩いて行きましょう︒渡波小学校を右手に見て︑信号を渡って真っ直ぐ行くと左手にお寺の山門が見えてきます︒歩いてみませんかふるさとの文化財▲伊去波夜和気命神社④潮塚境内の南側を通る追路に面して建てら③伊去波夜和気命神社かつては塩釜明神︑浜大明神といわれていましたが︑明治七年に現在の社名に改められました︒これは︑平安時代に定められた﹁延惑式﹂にある牡鹿十座のうちの一っといわれていますが︑同名の神社が稲井の水沼地区にもあります︒いずれにしても由緒のある神社の︱つです︒また︑境内には沢山の石碑があり︑渡波地区の偏仰の歴史を探る上でも貨重なものです︒その中の︱つに﹁潮塚︵うしおづか︶﹂があります︒きます︒これが伊去波夜和気命神社です︒れています︒弘化四年( ‑八四七︶に︑淮南一府等四人によって建てられたもので︑碑而には﹁疑ふな潮のはなも浦の春﹂という俳句が刻まれています︒これは︑﹁二見の図を拝み侍りて﹂と題する芭蕉の一句で︑一種の芭蕉の句碑といえます︒神社を出て︑前の道を真っ直ぐに束に歩いていきましょう︒四つ角を通り抜け︑三叉路にぶつかります︒これを左に曲がり︑歩いていくと︱つ目の四つ角に石の棉柱が建っています︒何でしょう︒⑤渡波本町この石柱は︑今は使われなくなった町名を後世に残すために教育委貝会が建てたものです︒﹁本町﹂は石巻湊にもありましたが︑この町名はその町の根源の意味があるという説があり︑最も古い町名の︱つであると言われています︒渡波本町は︑渡波の中で最も早く宿場▶潮塚( 2 Q 石巻市文化財だょりに指定された町で︑江戸時代には女川︑遠島(牡鹿半島)への陸路•海路の基地としてにぎわいました︒旧本町の通りを抜けて︑県道石巻鮎川線を横切って︑また歩いていきましょう︒交通批の多い道ですから︑皆さん横断するときには︑充分注意してください︒しばらく歩くと左側に宮城県水産高等学校が見えてきます︒そのまま進んでいきましょう︒塩窃町の三叉路が見えてきました︒その細い追を入っていくと︑正面に神社が見えてきます︒これが﹁鳥浜神社﹂です︒⑥鳥浜神社渡波の塩田は究永二年( ‑六二五︶流留村の菊地与惣右衛門が︑行徳︵千葉県︶塩田の技術を移入して開発が始められま・‑. . . .旧渡波本町した︒島浜神社の縁起ははその時の労苦を梧り伝えています︒塩田開発のために築いた堤防が夜毎破られ︑修理してもまた同じことの繰り返しでした︒ある夜︑与惣右衛門の夢枕に◀鳥浜神社白烏があらわれ︑﹁今まで住処としていたところを塩田にされるのはかなわない︒そのために堤防を壊すのだ︒﹂という︒与惣右衛門は︑その霊を鎖めるためにこの烏浜神社を建てたといわれています︒この且浜神社を囲むように回っている道を歩きましょう︒しばらく行くと目の前に万石浦が広がってきました︒その万石浦につきでるように石垣で組んだ陸地が見えます︒ここは旧町名﹁入船町L です︒⑦入船町入船町は明治四十三年︑事業家の王井庸四郎が︑当時の渡波町品との協力により明治政府の許可を受け埋め立て工事を行い︑大正三年五月に完成した埋め立て地です︒工事完成後︑製材工場や沃度︵ようど︶工場が建てられ︑当時の日本の窃国強兵策と相まって活況を呈しました︒しかし︑大正末年の火災によりこのエ場も撤収されてしまったのです︒さて︑今度は県迫石巻鮎川線に戻って万石棉を渡りましょう︒万石浦が左手に広がっています︒万石浦は﹁奥の海﹂といわれ︑平安時代の昔から歌枕の地として知られており︑数々の和歌にも詠まれています︒現在の万石浦の名は︑仙台瑞二代藩主忠宗が︑干拓すれば万石の米が穫れるだろうと語ったということから︑万石浦の名がついたと伝えられています︒橋を渡ったら左に曲がってください︒しばらくすると白い標柱が見えてきました︒⑧久米幸太郎仇討ちの地安政四年( ‑八五二︶︑この一画で仇討ちが行われました︒文化︱四年︵一八一七︶新発田藩士久米弥五兵衛は︑同僚の滝沢休右衛門に殺害され︑滝沢休右衛門はそのまま逃走︒久米弥五兵衛の息子である幸太郎は︑文政︱一年( ‑八二八︶藩に仇討ちを願い出た︒幸太郎は滝沢休右衛門を探し求めて各地を旅したが︑幾多の苦労の末にここ石巻でようやく滝⑨梨木畑貝塚梨木畑貝塚は︑縄文時代早期から中期◀久米幸太郎仇討の他沢休右衛門を探し当て︑本恨を遂げたのでした︒この史実は︑長谷川伸等の小説などにも取り上げられました︒足をこのまま梨木畑方面に延ばしましょう︒左手の万石浦のなかに浮かんだ石垣が見えてきました︒これは︑渡波の塩田の名残で︑松前釜と呼ばれていた所です︒渡波の塩田は前述のように突永年間に菊地与惣右衛門によって始められ.その後昭和三五年に廃止されるまで続けられたのでした︒更に歩いていくと正面に畑が見えてきます︒この一帯が梨木畑貝塚です︒石巻市文化財だょり22 ⑩祝田浜の両墓制⑪祝田の子持ち地蔵祝田浜の旧家では︑珍しい両硲制が行正月︱四日になると︑祝田浜では獅子にかけてと、奈良•平安時代を中心とした貝塚です︒特に︑縄文時代早期の土器は︑﹁梨木畑式﹂として縄文時代の標識となる土器形式となっおり︑石巻地方では最も古い逍跡の︱つです︒昭和三八年束北大学により発掘調査が行われました︒梨木畑貝塚を後にして︑再ぴ渡波の方ヘ歩いていきましょう︒先程の久米幸太郎仇討ちの地の標柱が立っている三叉路を左に入っていきましょう︒法音寺の入口を径って境内を過ぎ︑山道を道なりに塗っていくと︑頂上に公園が見えてきます︒潮見台公園です︒ここはこの地方では珍しい両硲制のある所です︒▲梨木畑貝塚われていました︒通常逍体を埋葬してその上に石などで硲栖を建てるのに対して︑両硲制とは︑逍体を葬る埋め硲と︑死者の盆をまつる詣り硲と︑サ空が二つある土葬による硲制をいいます︒祝田浜では︑埋め竹手を身硲︵みはか︶詣り打手を空硲︵からはか︶と呼んでいます︒このような風習は︑宮城県では祝田浜だけにしかありません︒全国的には近畿地方に多く分布していますが︑やはり東北地方や九州地方では少ないようです︒法音寺の参迫を戻って︑左に歩いていくと民家の前に二体のお地蔵さんが立っています︒これが︑祝田の子持ち地蔵です︒身墓振りが家々を廻るなどして︑小正月の行事で賑わいました︒また︑獅子振りはこのお地蔵さんを正装させて新婚家庭に運ぴ︑その家の床の間に据えて︑元気な子供が授かるように祝いました︒その時︑男のお地蔵さんが︵写真右︶誼かれた家では男の子が︑女のお地蔵さんが︵写真左︶骰かれた家では女の子が授かると伝えられていました︒さて︑ずいぶんと歩いてきましたが︑皆さんお疲れになったことでしょう︒もう少しです︒頑張って歩きましょう︒お地蔵さんを過ぎると︑万石浦の水道が見えてきました︒左折して︑その水道沿いに少し歩いていくと︑松の木の下に石の塔があります︒▶常夜燈案内⑫祝田の常夜燈万石橋が開通する以前は︑渡波と祝田の間には渡し場がありました︒この常夜燈はその渡し場に文化十年( ‑八一三︶に建てられたものです︒これには︑金華山までの里程が刻まれています︒このころは寺社参詣が活発になり︑石巻地方でも金華山参詣の人々で賑わいました︒この常夜燦は︑金華山街追の道標の役割も果たしています︒さて︑ここまでずいぷんと歩いてきました︒皆さんお疲れになったでしょう︒本日の文化財めぐりはこれでおしまいです︒いかがでしたでしょうか︒今後も︑市内の文化財めぐりを実施したいと考えております︒本日は︑お疲れさまでした︒気をつけてお船りください︒石巻市教脊委貝会石巻市文化財だょり( 2 4 ) 月日十月二十日︵日︶講師佐藤雄一石巻市文化財保護委貝参加者三十二人雨の多かった平成三年の秋でしたが︑この日はからりと晴れあがり︑絶好の日和となりました︒朝八時四十分︑門脇町三丁目の﹁網地島田代島行観光船発沼所﹂に集合し︑九時発のプルーライナー号に乗り込み田代島の仁斗田港へ十時前に到滸しました︒仁斗田貝塚︑石巻市田代島自然教育センター︑十三塚︑猫神社︑和良美︵わらび︶大網︑三石観音等を徒歩第一回文化財めぐり田代島の自然と歴史をたずねて平成三年度も例年どおり三回の文化財めぐりを実施しました︒第一回文化財めぐりは田代島︑第二回は山形県米沢市︑第三回は市内浸地区の文化財を見学しました︒いずれもよい天気に恵まれ︑所期の目的を果たすことができました︒なお︑例年のことではありますが︑申込みの受付開始とともにたくさんのご応経をいただきありがとうございました︒ただ︑すぐに定貝いっばいになったので︑参加を希望されたのにもかかわらず︑参加できなかった方が多数ございましたことをお詫び申し上げます︒月日十一月十日︵日︶講師石垣宏石巻市文化財保護委貝参加者四十三人今年は少し足をのばして︑米沢市へ行きました︒米沢は︑上杉家の城下町として知られていますが︑戦国時代は伊達氏の居城があったこともあり︑伊達政宗は︑米沢で生まれています︒朝八時に市役所前に集合し︑すぐ出発︑束北自動車逍を南下し︑飯坂インターチェンジから国道一三号線を使って米沢市に入りました︒上杉家靱所︑米織観光センター︑上杉神社︑上杉記念館︑笹野観音等を見学し︑夜六時過ぎ石巻へ桶りました︒今回は︑バスの補助椅子を使用しないですむ人数に参加者を限定したため︑わりあいゆったりとしたパスの旅ができました︒第二回文化財めぐり米沢の歴史をたずねてでめぐり︑十五時二十七分発のマーメイド号で島を後にしました︒田代島での文化財めぐりは︑初めてで︑島民以外にはあまり知られていない︑しかし︑たいへんに貨重な文化財に触れることができ︑有意義な一日でした︒平成三年度文化財めぐり◀第一回文化財めぐり◀第三回文化財めぐり月日十一月十七日︵日︶講師佐藤雄一石巻市文化財保護委貝参加者l ‑+ ︱︱一人十一月の中旬としては︑かなり暖かく︑徒歩を主体とした文化財めぐりには絶好の天候となりました︒朝八時四十分市役所前集合︑マイクロパスで牧山に登り︑徒歩で山を下りながら零羊崎神社︑長禅寺︑法泉寺跡︑一皇子神社︑多福院を見学しました︒石巻市内には南北朝時代の板碑が多数あり︑また︑護良親王伝説等の南朝方にまつわる伝説もあり︑講師の話に参加者は興味深げに聞き入っていました︒第三回文化財めぐり太平記と石巻◀第二回文化財めぐり25 石巻市文化財だょり昭和三七年( ‑九六二︶に﹁住居表示に関する法律﹂が制定されてから︑昔から使われていた町名は新しい町名に骰きかえられるようになりました︒そのため︑旧い町名はそこに住む人々からも忘れられてしまうような状況になりました︒石巻市も例外ではありません︒町名は︑私達の祖先がその土地とどのようにかかわってきたかを知る重要な手掛かりであり︑かけがえのない文化財なのです︒今︑日本各地では︑町名も文化財であるという認識を持ち︑住居表示を行わない︑あるいは︑なるべく旧い町名を生かす︑さらに失われつつある町名を記録のなかだけでも保存するなど︑何らかの方法で町名を残す運動が起きつつあります︒石巻市教脊委貝会では︑すでに使われなくなった由緒ある町名を後世に伝えるため︑旧い町名とその由来を石に刻んでその地区に建立する事業を昭和五六年度から行い︑平成二年度までにニ︱本を設骰いたしました︒本年度は﹁渡波裏町﹂と﹁赤土山下﹂の二本を設m l i l し︑これで合計二三本になりました︒設趾にご協力をいただいた方々に︑肛くお礼上げます︒平成二年度までに設置した旧町名石柱A 昭和五六年度設置V r 新田町﹂1 1 千石町︵石巻グランドホテル前︶r 渡波本町﹂1 1 渡波町三︵内海笑方前︶r 湊本町﹄1 1 湊町一︵湊幼稚園前︶A 昭和五七年度設置>r 横町﹄1 1 千石町︵河北新報社前︶r 中町﹄1 1 中央二︵ダックシティ丸光前︶﹃九軒町﹄1 1 門脇町二︵消防第三分団前︶A 昭和五八年度設骰V r 立町﹄1 1 立町一︵仙台銀行前︶r 面剣田﹄1 1 消水町一︵ニイヌマピル前︶A 昭和六0 年度設置V r 後町﹄1 1 門脇町二︵西光寺前︶r 袋谷地﹄1 1 水明南二︵長林寺前︶A 昭和六一年度設骰V r 本町﹄1 1 中央一︵中央一郵便局前︶r 坂下町﹄1 1 中央一︵永毅寺参道入口︶A 昭和六二年度設四V r 本草園﹄1 1 双葉町︵双葉町公園内︶r 御所入﹄1 1 湊字御所入︵御所入公園内︶A 昭和六三年度設骰V r 田町﹄1 1 八幡町一︵拝幣志神社境内︶r 束町﹄1 1 湊町匹︵稲井嘉明氏宅前︶A 平成元年度設囮>r 衷町﹄1 1 中央二︵まるみ呉服店前︶r 小野寺横丁﹂1 1 立町一︵梅屋分店前︶A 平成二年度設骰V r 鰐山﹂1 1 泉町三︵総合体育館駐車場︶r 蛇田町﹂1 1 旭町︵烏屋神社境内︶胃由緒ある町名を後世にI 町名は文化財﹁石巻本町﹂に隣接して﹁裏町﹂があり︑石巻村最初の宿場である﹁本町﹂の混手の町の意を示すという説があり︑同様に﹁渡波裂町﹂も︑﹁渡波本町﹂の裏手の町の意を示すと考えられる︒渡波町は︑天文年中( ‑六世紀後半︶に佐々木肥後によって開拓されたと伝えられ︑江戸時代には根岸村端郷として扱われた︒安氷二年( ‑七七三︶の﹁恨岸村端郷渡波町風土記曹上﹂には︑﹁本町ハ究永一八年衷町は延宝八年1 1 中略I I 宿場二被相立候事﹂と記されており︑この時期には﹁衷町﹂は成立していたと考えられる︒渡波裏町︵末永隆紀氏宅前︶この一帯の南側には鰐山丘陵︵通称羽黒山︶があり︑その崖面に露頭している赤土から︑﹁赤土山下﹂の地名がついたと考えられ︑土地の景観︑立地状況がそのまま地名となった好例である︒赤土山下は︑明治時代の始めに北上運河が開通すると︑それまで栄えていた﹁旭町﹂に代わり︑石巻の玄関口として栄えるようになった︒一帯には米穀商を始めとする多数の商家が軒を連ね︑通称﹁穀町﹂と呼ばれるようになり︑現在ではこの通称が住居表示の町名として使用されている︒赤土山下︵市道穀町六号線緑地内︶石巻市文化財だょり( 2 $ 石巻鋳銭場踪享保年間( ‑八世紀初︶以降︑仙台藩︻説明板︼日本全国には約三0 万か所の遺跡︵周知の埋蔵文化財包蔵地︶があり︑石巻市内にも約一0 0 か所の遺跡があります︒これらの遺跡︵周知の埋蔵文化財包蔵地︶は︑文化財保護法で保護する対象になっており︑そこで工事をするときは文化庁長官への届け出が必要です︒石巻市教育委貝会では︑この遺跡︵周知の埋蔵文化財包蔵地︶の存在を広報するため︑標柱と説明板を建てています︒全部の遺跡︵周知の埋蔵文化財包蔵地︶に建てたわけではありませんが︑この標柱や説明板のあるところは︑遺跡であり︑現状を変更しようとするときは︑石巻市教育委貝会と宮城県教育委員会を通じて文化庁長官への届け出が必要です︒工事を計画したら︑できるだけ早く石巻市教育委貝会社会教育課文化係へ相談してください︒本年度は︑標柱六本︑説明板一基︑案内板一基を設骰しました︒では︑領内の銭貨不足を理由に︑添府に対して︑しばしば鋳銭を顔い出︑許可され︑多くの銭を鋳造した︒領内の銭柑不足を解消するだけでなく︑鋳銭は︑藩財政へも多くの収入をもたらした︒鋳造地は︑原材科︑燃科︑製品の出入りに便利な石巻に骰かれ︑稲末まで断続的に鋳造が続けられた︒はじめのうちは︑銅一文銭が鋳造され︑領内と江戸で売り払われた︒やがて︑領内だけで売り払われるようになった︒さらに質の悪い鉄一文銭が鋳造され︑領外へ流出し︑銭相場を下落させ︑全国的な経済混乱の一因となったりした︒天保八年( ‑八三七︶の平面図によれば︑石巻鋳銭場は︑八0 間四方で︑周囲を堀と竹矢来に囲まれていた︒﹁表御門﹂﹁改御門﹂﹁黒御門﹂﹁納御門﹂と匹つの門があり︑非常に厳重な構造になっていた︒地金を作る本吹所を中心に役人の詰所︑台所等が配置されていた︒鋳銭場の操業は︑石巻町場の経済へも大きな影罪を与え︑操業がないと石巻の町場は火の消えたようになったという︒平成三年三月石巻市教脊委貝会まし切に一文化財標柱・説明板設置事業一明神山下貝塚明神山の東側裾部︵標高二.五訂︶に立地する縄文時代の貝塚である︒ハマグリを主とする匝さ一"いの純貝培があった︒渡波塩田跡地江戸時代初期︑牡鹿郡流留村の菊地与惣右衛門により︑下総の行徳塩田の技術を媒入して万石浦西岸に渡波塩田が︑開拓され︑昭和三五年の第三次塩業整備により廃止された︒草刈山板碑群本板碑群は御所入草刈山地区から移転した大型の板碑群で︑特に吉野先帝菩提碑と同じ﹁奉為﹂と刻される表現は︑その年代を考えるうえで︑買重である︒高木古館跡東側には四ー五段からなる段築が明確に残り︑南北両端には館を区画する見事な空堀が二本ずつ設けられている︒内原遺跡この遺跡は︑主に平安時代前期︵約千二百年前︶頃に形成される集落跡であり︑一帯からは須恵器︑土師器等の古代の土器の破片が発見されている︒湊小学校遺跡過去に蕨手刀︵六t 七世紀頃の柄がワラピのような形をしている刀︶が出土している遺跡で隣接する五松山洞窟遺跡との関連が注目される︒︻標柱石巻市文化財だより(第2 1 号)平成4 年3 月3 0 日平成4 年3月3 1 日刷行印発発行:石巻市教育委員会石巻市1 3 禾I I が丘一丁目1 番1 号誼話( 0 2 2 5 )9 5 ‑l l l l内線3 4 5 印刷:株式会社鈴木印刷所石務i i i蛇I l l 字新谷地i i り1 2 1 l i t 話( 0 2 2 5 )2 2 ‑4 1 0 1
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副書名 :
巻次 : 24
シリーズ名 :
シリーズ番号 :
発行(管理)機関 : 奈良文化財研究所 - 奈良県
発行機関 : 木簡学会
発行年月日 : 20021125
作成日 : 2021-03-11
木芳史盆ハ庫県教育委員会︶5遺跡の種類城下町跡6遺跡の年代近世7遺跡及び木簡出土遺構の概要<b>明石</b>城は小笠原息政︵忠真︶が<b>明石藩</b>主として転封されたことに伴って︑元和三年︵三全七︶から構築された︒そ
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副書名 :
巻次 : 10
シリーズ名 :
シリーズ番号 :
発行(管理)機関 : 関西学院大学 - 兵庫県
発行機関 : 関西学院大学考古学研究会
発行年月日 : 20070300
作成日 : 2020-01-28
川大坂城東六甲採石場甲山刻印群の概要・・・・・・・古)1 1 久雄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5 7 <b>明石</b>城公園散策・・・・・・・折井千枝子・・・・・・・・・・・・・・・・・6 5 関西学院大学考古学研究会の設立と武藤誠「古
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副書名 :
巻次 :
シリーズ名 :
シリーズ番号 :
発行(管理)機関 : 神戸市 - 兵庫県
発行機関 : 神戸市教育委員会
発行年月日 : 20090300
作成日 : 2018-09-20
付けで文化審議会から答申を受け、平成18年7月28日付け官報号外第174号文部科学省告示第118号で史跡の追加指定を受けた(指定面積45,778.81r) 国史跡の指定<b>明石藩</b>舞子台場跡は、幕末に外国からの脅威に備え、対
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副書名 : 唐津保健福祉事務所建替えに伴う発掘調査報告
巻次 : 10
シリーズ番号 : 181
編著者名 : 美浦 雄二 | 築城 昇平
発行(管理)機関 : 唐津市 - 佐賀県
発行機関 : 唐津市教育委員会
発行年月日 : 20190329
作成日 : 2023-07-10
) 年に大久保氏が播磨<b>明石藩</b>より入封する。以降、松平氏−土井氏−水野氏−小笠原氏と五代の譜代大名が治めることとなり、幕末を迎えた。大久保氏の治世には地方知行制を改め、蔵米知行制を採用し、転
副書名 :
巻次 :
シリーズ名 :
シリーズ番号 :
発行(管理)機関 : 神戸市 - 兵庫県
発行機関 : 神戸市教育委員会
発行年月日 : 20060300
作成日 : 2011-02-15
竹形木棺を埋納した粘土椰で、銅鏡・勾玉・管玉。ガラス玉。緑色凝灰岩製腕飾類・鉄製品など出上している。これまでの確認調査で、柄鏡形の墳形をとる<b>明石</b>川流域では最古の古墳であり、古墳の周囲に多数の埴輪円筒棺を伴う全国的にみても特異な
副書名 :
巻次 :
シリーズ名 :
シリーズ番号 :
発行(管理)機関 : 石川県金沢城調査研究所 - 石川県
発行機関 : 石川県金沢城調査研究所
発行年月日 : 20200300
作成日 : 2020-11-04
~)〈1651〉(播州〈<b>明石</b>〉紀行)(24)15 (承応3 年6 月上旬)〈1654〉(尾陽紀行)(31)16 (明暦2 年6 月6 日)〈1652〉(<b>明石</b>紀行)(14)17 明暦2 年〈1652〉賀州紀行32