十世紀における国家軍制と鞠智城
野木 雄大
十世紀は、列島全体で新たな軍事的危機と大きな社会変動が起きた時期である。鞠智城の廃止もかかる動向と無関係ではないと考えられる。本稿では、十世紀の国家軍制と大宰府軍制の転換に焦点を当てることで、Ⅴ期の鞠智城を位置づけることを目的とする。
九世紀から十世紀にかけて、「秩満解任之人」「王臣子孫之徒」などの「留住」によって組織された「党」は、当該期の中央国家が直面した軍事的危機であった。かかる状況下において新羅海賊による有明海への侵攻が現実のものとなり、この段階で初めて有明海の防衛が意識される。ここに鞠智城の機能が倉庫から再び「城」へ変化し、軍事的活動を再開する要因があった。しかし、天慶の乱が勃発すると、既存の国家軍制では太刀打ちできず、中央は天慶三年正月十一日官符によって反乱側の軍事力でもあった「党」の組織を試みる。これが功を奏し、「党」の軍事力によって天慶の乱は鎮圧され、同官符は乱の鎮圧者の系譜が「兵」の家として確立してゆく契機となった。政庁の焼失という前代未聞の事態を引き起こし、軍事力の転換を迫られた大宰府軍制も「党」に相当する人々を組織し、刀伊の入寇をはじめとする軍事危機に対応していった。かかる国家軍制の転換によって鞠智城の軍事的意義は失われ、三百年続いたその長い歴史に幕を下ろしたのである。
九世紀から十世紀にかけて、「秩満解任之人」「王臣子孫之徒」などの「留住」によって組織された「党」は、当該期の中央国家が直面した軍事的危機であった。かかる状況下において新羅海賊による有明海への侵攻が現実のものとなり、この段階で初めて有明海の防衛が意識される。ここに鞠智城の機能が倉庫から再び「城」へ変化し、軍事的活動を再開する要因があった。しかし、天慶の乱が勃発すると、既存の国家軍制では太刀打ちできず、中央は天慶三年正月十一日官符によって反乱側の軍事力でもあった「党」の組織を試みる。これが功を奏し、「党」の軍事力によって天慶の乱は鎮圧され、同官符は乱の鎮圧者の系譜が「兵」の家として確立してゆく契機となった。政庁の焼失という前代未聞の事態を引き起こし、軍事力の転換を迫られた大宰府軍制も「党」に相当する人々を組織し、刀伊の入寇をはじめとする軍事危機に対応していった。かかる国家軍制の転換によって鞠智城の軍事的意義は失われ、三百年続いたその長い歴史に幕を下ろしたのである。