奈良文化財研究所 ホーム
キーワードから探す
一覧から探す
その他
おすすめ
PDFがある書誌登録数
41258 件
( 発行機関数 755 機関 )
現在の書誌登録数
132433 件
( 前年度比 + 1749 件 )
( 発行機関数 1917 機関 )
現在の遺跡抄録件数
147564 件
( 前年度比 + 2123 件 )
現在の文化財論文件数
120577 件
( 前年度比 + 1582 件 )
現在の文化財動画件数
1302 件
( 前年度比 + 118 件 )
( 登録機関数 117 機関 )
文化財イベント件数
1250 件
( 前年度比 + 200 件 )
※過去開催分含む

伏見城跡

URL https://sitereports.nabunken.go.jp/70252
DOI 二次元コード
二次元コードダウンロード
※二次元コードが有効化するまでにPDFの登録から2週間程度かかる場合があります。
DOI http://doi.org/10.24484/sitereports.70252
引用表記 株式会社四門西日本・中部支社京都支店 2018 『伏見城跡』株式会社四門西日本・中部支社京都支店
株式会社四門西日本・中部支社京都支店 2018 『伏見城跡』
wikipedia 出典テンプレート : {{Cite book ... 開く
wikipedia 出典テンプレート : {{Cite book|和書|first=広志|last=辻|first2=淳|last2=千喜良|first3=晋士|last3=布村|first4=広美|last4=浅野|first5=万容|last5=小林|title=伏見城跡|origdate=2018-03-31|date=2018-03-31|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/70252|location=京都市下京区富小路通五条下る本塩竈町558-8 昭栄ビル5階|ncid=BB26523038|doi=10.24484/sitereports.70252}} 閉じる
ファイル
※モバイル対応のPDFは解像度を下げているため、画像が粗く文章が読みにくい場合があります。
書名 伏見城跡
発行(管理)機関 京都市 - 京都府
書名かな ふしみじょうあと
副書名 京都市伏見区桃山町下野27-1の発掘調査
巻次
シリーズ名
シリーズ番号
編著者名
編集機関
株式会社四門西日本・中部支社京都支店
発行機関
株式会社四門西日本・中部支社京都支店
発行年月日 20180331
作成機関ID 26100
郵便番号 6008119
電話番号
住所 京都市下京区富小路通五条下る本塩竈町558-8 昭栄ビル5階
報告書種別
埋蔵文化財(遺跡等)-発掘調査・分布調査・資料調査等
資料タイプ Research Paper
発掘調査報告 掲載されている(発掘調査報告書総目録の掲載対象)
所蔵大学(NCID)
JP番号
他の電子リソース
備考
所収論文
所収遺跡
遺跡名 伏見城跡
遺跡名かな ふしみじょうあと
本内順位 1
遺跡所在地 京都市伏見区桃山町下野27-1
所在地ふりがな きょうとしふしみくももやまちょうしもつけ
市町村コード 26109
遺跡番号 1172
北緯(日本測地系)度分秒
東経(日本測地系)度分秒
北緯(世界測地系)度分秒 345613
東経(世界測地系)度分秒 1354625
経緯度(世界測地系)10進数(自動生成) 34.936944 135.773611
※当該位置周辺を表示し、同一名称の遺跡データが存在する場合は遺跡をポイント表示します。
調査期間
20171016-20171215
調査面積(㎡)
370
調査原因 集合住宅建設
遺跡概要
種別
城館
時代
安土桃山
江戸
主な遺構
石垣
根石設置溝
塀(柵)
素掘溝
石組暗渠排水溝
道路
石組溝
主な遺物
土師器
陶磁器
金属製品
特記事項 石垣の発見
要約 伏見城跡における豊臣期と徳川期の2 時期の石垣の存在と、遺構変遷が明らかとなった。
豊臣期の遺構は、斜面下の石垣と、その西側の道路を挟んだ塀の支柱遺構がある。石垣は根石とその一部が残されていたもので、地上に出ていた部分は石垣表面が焼けて赤変し石爆ぜが生じ、路面も全面焼土や炭に薄く覆われていた。石垣の裏込めには、大型の割石を含む栗石が多数用いられていた。この焼土層は、慶長五(1600)年に伏見城が全焼した「伏見城の戦い」の焼土層と考えられるものであった。石垣の残りは現況で1段を残すが、根石がさらに約1m余り3 段残存していた。石垣の特徴は、使用石材には花崗岩を含まず山科周辺の丹波帯の塊状母材を用いた、自然石と割石を組み合わせた割石積み石垣であった。
徳川期の遺構は、豊臣期の石垣を埋め込む様に盛土整地した上面の西側前面に作られた石垣であるが、用いられた石材は全て残存しておらず、石垣設置溝と根石下の栗石や尻飼石等が僅かに残るのみであった。この石垣は、伏見城の廃城後に二条城や淀城に持ち運ばれたものと考えられた。また、石垣設置溝の西側には、焼土層を切る幅の狭い素掘り溝が1条と、それを壊す内幅60 ㎝の直線的な石組溝が1条設けられ、延長約50mを検出した。
また、出土遺物では赤漆の上に金箔を貼った金箔瓦の出土や、五三の桐の豊臣家の家紋瓦が散見されるなど多数の瓦が出土している。
このように今回の調査は、これまで知られていた花崗岩の石垣や石組溝が徳川期伏見城のものであること、徳川期の石垣に埋め込まれた豊臣期の伏見城の石垣や「伏見城の戦い」によるものと考えられる焼土層を発見した。

関連文化財データ一覧

このエントリーをはてなブックマークに追加
詳細ページ表示回数 : 818
ファイルダウンロード数 : 1799

全国のイベント

外部出力