奈良文化財研究所 ホーム
キーワードから探す
一覧から探す
その他
おすすめ
PDFがある書誌登録数
41209 件
( 発行機関数 755 機関 )
現在の書誌登録数
132406 件
( 前年度比 + 1721 件 )
( 発行機関数 1917 機関 )
現在の遺跡抄録件数
147517 件
( 前年度比 + 2091 件 )
現在の文化財論文件数
120560 件
( 前年度比 + 1563 件 )
現在の文化財動画件数
1298 件
( 前年度比 + 114 件 )
( 登録機関数 117 機関 )
文化財イベント件数
1247 件
( 前年度比 + 197 件 )
※過去開催分含む

与論城跡

URL https://sitereports.nabunken.go.jp/139047
DOI 二次元コード
二次元コードダウンロード
※二次元コードが有効化するまでにPDFの登録から2週間程度かかる場合があります。
DOI http://doi.org/10.24484/sitereports.139047
引用表記 与論町教育委員会 2024 『与論町埋蔵文化財発掘調査報告害2:与論城跡』与論町教育委員会
与論町教育委員会 2024 『与論城跡』与論町埋蔵文化財発掘調査報告害2
wikipedia 出典テンプレート : {{Cite book ... 開く
wikipedia 出典テンプレート : {{Cite book|和書|first=勇輔|last=南|first2=榮史|last2=池田|first3=才良|last3=麓|first4=善彦|last4=赤司|first5=修一|last5=永山|first6=岳二|last6=樋泉|first7=耐二|last7=黒住|title=与論城跡|origdate=2024-03-15|date=2024-03-15|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/139047|location=鹿児島県大島郡与論町茶花1418-1|doi=10.24484/sitereports.139047|series=与論町埋蔵文化財発掘調査報告害|volume=2}} 閉じる
ファイル
※モバイル対応のPDFは解像度を下げているため、画像が粗く文章が読みにくい場合があります。
書名 与論城跡
発行(管理)機関 与論町 - 鹿児島県
書名かな よろんじょうあと・よろんぐすくあと
副書名 町内迫跡発掘調査事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告忠
巻次
シリーズ名 与論町埋蔵文化財発掘調査報告害
シリーズ番号 2
編著者名
編集機関
与論町教育委員会
発行機関
与論町教育委員会
発行年月日 20240315
作成機関ID 465356
郵便番号 8919301
電話番号 09036031114
住所 鹿児島県大島郡与論町茶花1418-1
報告書種別
埋蔵文化財(遺跡等)-発掘調査・分布調査・資料調査等
資料タイプ Research Paper
発掘調査報告 掲載されている(発掘調査報告書総目録の掲載対象)
所蔵大学(NCID)
JP番号
他の電子リソース
備考
所収論文
所収遺跡
遺跡名 与論城跡
遺跡名かな よろんじょうあと・よろんぐすくあと
本内順位
遺跡所在地 鹿児島県大島郡与論町大字立長
所在地ふりがな かごしまけんおおしまぐんおおあざりっちょう
市町村コード 465356
遺跡番号 535-7
北緯(日本測地系)度分秒
東経(日本測地系)度分秒
北緯(世界測地系)度分秒 270140
東経(世界測地系)度分秒 1282544
経緯度(世界測地系)10進数(自動生成) 27.027777 128.428888
※当該位置周辺を表示し、同一名称の遺跡データが存在する場合は遺跡をポイント表示します。
調査期間
19931025-19931102
20201019-20210312
20211018-20220311
20220630-20220928
調査面積(㎡)
62.3
39.5
48.8
18.6
調査原因 史跡内容確認の ための発掘調査,町内遺跡発掘調査事業による確認調査
遺跡概要
種別
城館
時代
南北朝
室町
近世(細分不明)
グスク
琉球王朝
主な遺構
柱跡
城の造成層
石垣の裏込め
溝跡
主な遺物
土器
青磁
白磁
カムィヤキ
褐釉陶器
滑石製錘
石製錘
砥石
羽口
ガラス製勾玉
銭貨
染付
薩摩産陶器
沖縄産陶器
ガラス玉
特記事項 城の造成居や石垣の裏込めを確認
城の主な利用時期と同時期の建物跡の柱穴を確認
近世の耕作に係る溝跡を確認
要約 与論城跡は与論島の南、標高約90mの琉球石灰岩段丘頂部に所在する三山時代(グスク時代・中世並行期)のグスク跡。グスクの北限の一例となる城跡で、発掘調査及び測量調査の結果、比高60mの断層崖から段丘頂部にかけて、東西約150m、南北約210mの範囲を石垣が囲んでいたと推定される。
 城域は沖縄本島以外の離島では最大規模で、2万㎡を超えると考えられ、断層崖の地形を取り込んだ縄張りは、ほかのグスクでは類例が少ない特徴を示す一方、段丘頂部の城域内平坦面は2~3mの石積で囲むなど沖縄からの影響や技術導入によって築城されたと考えられる。
城域内部には、平坦面から大きく15の地区に分けることができ、段丘頂部は石垣、断層崖斜面地の平場は石垣や通路によって分割されている。断層崖の石積は、開発等に伴う改変が少なかったため比較的保存状況が良く、高さ2~3m以上の野面積みによる石垣が残存し、城外側を意識して面が揃うように構築されている。段丘頂部の石垣は、墓地造成等によって改変されているが、発掘調査の結果、人頭大の石灰岩礫を用いた石垣の裏込めや造成層が確認され、内部の平場を取り囲む石垣は面の揃い方が不明瞭なのに対して、外郭となる石垣の外面は崖下と同様に面が揃うように構築されている。
 城跡の存続時期は、出土遺物や城内で確認された柱穴跡の理化学年代測定値から、13世紀頃から城内の利用が始まり、14世紀後半から15世紀中頃が主体となることが明らかになった。
 伝承では、琉球国山北王の三男王舅や琉球国中山王尚真王代の人物とされる花城真三郎が築城したとされる。発掘調査の結果、築城年代については明確でないものの、出土遺物から考える主な利用時期が、琉球史のいわゆる三山時代から第一尚氏王統期に含まれる14世紀後半から15世紀中頃にあり、第一尚氏王統が奄美大島などの奄美群島の北部で遠征を行う15世紀後半以降は出土遺物が乏しくなることが確認された。伝承で伝わる琉球国山北王の三男王舅が築城したとする年代観と符号するものの王舅の実在性は定かではない。伝承と発掘調査成果から,与論城跡は琉球国の影響下のもと築城され利用され、琉球列島を取り巻く社会的な情勢に連動した城郭であったと考える。

関連文化財データ一覧

このエントリーをはてなブックマークに追加
詳細ページ表示回数 : 286
ファイルダウンロード数 : 478

全国のイベント

外部出力