尾張地域における石棒の行方
寺前 直人
愛知県朝日遺跡では、これまで多数の石棒が報告されている(愛知県教育委員会 1982、愛知県埋蔵文化財センター 1993)。その多くは弥生時代の遺構あるいは包含層から出土しているにもかかわらず、当遺跡でも少数の縄文時代の遺物、遺構が存在することから、縄文時代の石器として報告され、東海地方有数の弥生大型集落である朝日遺跡における石棒の意義が積極的に論じられることはなかった(石黒ほか1994)。 これはひとえに石棒類の型式学的検討の立ち遅れのためであり、弥生時代に属する石棒の抽出が困難であったことに起因する。そこで本稿では、朝日遺跡出土資料と関連資料を比較することにより、当遺跡出土の石棒類を時期的に位置づけることを第1の目的とする。 また、縄文時代晩期から弥生時代前期における東海地域と畿内地域との関係は土偶や石棒などの祭祀遺物から議論されてきた(鈴木 1993・品川2004ほか)。しかし、これまでの議論は土偶の検討が中心であり、石棒の型式や時期ごとの様相を整理したうえでの議論はほとんど皆無であるのが現状である。 筆者は近畿地方の弥生時代石棒の変遷を論じるなかで、奈良盆地などの畿内地域東半の石棒形態と東海地方のそれにおいて強い類似性がみられることを指摘した(寺前 2005)。さらに縄文時代晩期後葉から弥生時代前期前半には東部瀬戸内地域的な石棒文化圏であった大阪湾沿岸地域に、畿内地域東半からの影響が弥生時代前期後葉以降、認められることを明らかにしたのである。 従来の石棒研究は縄文と弥生の狭間に画期をみだすか、あるいはそれを超えた連続性を強調する議論が基調であった。このような論調に対して、前稿では石棒形式の地域差の時期的変動に注目して、弥生時代前期後葉に画期があり、その深淵が奈良盆地から東海地域を基盤とすることを強調したのである。 ただし、前稿では近畿地方の資料分析を主眼としたため、東海地方の資料を具体的に検討することができなかった。そこで本稿では朝日遺跡周辺、尾張地域における縄文時代晩期以降の石棒の変遷を整理したうえで、近畿地方と対比し、その関係の有無を明らかにすることを第2の目的とする。