国造軍と鞠智城
小嶋 篤
新規築城型古代山城である大野城跡から出土した豊富な土器の総量分析に基づいて、第一段階古代山城の大野城が小田Ⅴ期に築城されたことを確認した。そして、「倭政権の統治と外征」・「国造軍動員と労役」の検討を経て、第一段階古代山城の運用を可能とする動員体系を探るため、国造軍の成立から終焉にいたる兵制史を文献史料と考古資料を突き合わせてまとめた。『日本書紀』記載の「築・築城」が、古代山城の「築城開始」・「築城完了」のいずれを示すかは未決着であるが、筑紫における第1段階古代山城の築城期間(小田Ⅴ期)は、「戦時」が含まれており、国造軍駐屯期間と重なる。平時とは異なる「戦時」での軍事施設整備には、駐屯中の国造軍も動員されたと見るべきで、新規徴発の労役と組み合わせて早期の築城が図られたと考える。
鞠智城は築城史料を欠くが、築城・整備期において土器出土量の推移が大野城と連動することから、ほぼ同時期に築城され、国家(筑紫大宰・大宰府)により一体的に管理されていたと考えられる。本構造の根源には、倭政権の外征軍「国造軍」があり、同動員体系・動員路・戦術・兵器と倭政権主導の新戦略・新技術が組み合うことで、「戦時」の防衛体制が成立したと結論できる。
鞠智城は築城史料を欠くが、築城・整備期において土器出土量の推移が大野城と連動することから、ほぼ同時期に築城され、国家(筑紫大宰・大宰府)により一体的に管理されていたと考えられる。本構造の根源には、倭政権の外征軍「国造軍」があり、同動員体系・動員路・戦術・兵器と倭政権主導の新戦略・新技術が組み合うことで、「戦時」の防衛体制が成立したと結論できる。