平安時代の鞠智城周辺の国内情勢
里舘 翔大
平安時代の鞠智城の機能は、防衛から食糧備蓄機能に移った。本稿では、国内情勢、とりわけ、不動倉・不動穀の「開用」と肥後国府の変遷という視点から、平安時代の鞠智城がどのように機能し、管理され、廃城に至るかを検討した。その結果、鞠智城の大元の管理は大宰府であるが、Ⅰ期・Ⅱ期に国府の前身としての機能を有していたことと、Ⅳ期・Ⅴ期の不動倉・不動穀「開用」の視点から、国司、及び現地管理者として郡司も鞠智城の管理に関与していたと想定した。つまり、鞠智城は通時代的に[中央政府→大宰府→肥後国→菊池郡→鞠智城]という重層的な管理システムが認められると考えた。不動倉・不動穀の「開用」問題と肥後国府の変遷という国内情勢の視点から、鞠智城は大宰府の管理下にありながら、実際には、国司や郡司も管理システムの体系に組み込まれていたことが想定できる。そして、そのシステムは、平安時代のみならず、通時代的に認められる。