鞠智城の築造過程と古代肥後の氏族的特質
西村 健太郎
肥君は、5世紀には和王権の対外政策に協力するとともに独自に朝鮮諸国と交流していた。6世紀に入ると国造、屯倉の管理者として兵力・兵糧を供出するようになり、7世紀の白村江敗戦後、火国造の血族の拠地で、王権の軍事拠点でもある菊池川上流が菊池場建設地の一つに選ばれた。律令制支配が浸透するに及んで隼人の反乱が続発すると、鞠智城は改修が施されて軍事施設としての機能を整える。鞠智城は、性格を大きく変化させたのである。