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栃木県塩谷郡氏家町四斗蒔遺跡について

安永 真一 ( YASUNAGA Shin‘ichi )
 本稿では、本報告とは別に、現時点で報告できる範囲での四斗蒔遺跡調査の成果を述べると共に、自分自身まだ漠然としている考えを整理する意味を含めて、四斗蒔遺跡の成立について現在感じていることを述べてみたい。
 方形区画遺構を中心とした集落が形成された時期は、古墳時代前期である。しかし、遺構の斬り合いや出土遺物からその前後の時期の遺構も存在する。古墳時代前期以前の遺構については、P-8トレンチからは遺物のみ出土しており、第8号遺構も含め、その存在の可能性がある。方形区画遺構廃絶後の遺構としては、出土遺物より第14号遺構、方形区画遺構との斬り合いから第7号・17号・23号遺構が当たると思われるが、この他、確認された竪穴住居の中には第7号・14号・17号遺構と共に集落を形成していた住居もあると考えられる。従来、四斗蒔遺跡は古墳時代中期から後期を中心とした遺物が採集されており、方形区画遺構廃絶後も集落は周囲に展開したと思われる。
 遺構は調査対象とした徴高地の西寄りに集中する。しかし、G-9トレンチやO-19-②トレンチにおいても竪穴住居が確認されており、徴高地上全面にわたり住居跡が散在的に広がっていた可能性がある。また、今回の調査対象区外である調査区北側の道路を挟んだ田圃では、古墳時代前期の赤彩された壷形土器や器台形土器の破片が採集されている。古墳時代前期の時期に、遺跡はかなりの範囲に展開していたと考えられる。そして、その一角に方形区画遺構が営まれたと考えられる。
 2基の方形区画遺構は、最近事例が増え、研究・注目されている豪族居館とされる遺構の特徴を有する。第1号遺構は南北に突出部をもち、堀の内側に塀か柵を立てた布掘溝が平行して巡っている。これは、第2号遺構に面する東側で途切れており、出入り口部が想定される。また、堀の埋土の堆積状況より、堀の掘削土は堀の外側に盛られていたと考えられる。これが果して士塁として盛られ機能していたものか、それとも単に堀の内側の空間を広くとるために堀の外側に盛られたものかは検討が必要である。内部の構造は不明確だが、北辺堀の内側にやや大形の竪穴住居第22号遺構があり、堀出土の土器と同時期頃の土器が見つかっている。この第22号遺構の内側には、さらに布掘溝が存在し、第1号遺構内をさらに区画する施設があることが考えられる。
 一方第2号遺構は、規模においてやや第1号遺構を上回るが、突出部をもたず、堀の内側を巡る布掘溝も一部でしか確認できなかった。また、土塁の有無も不明で、ある。内部には、何軒かの竪穴住居が存在するが、(どれが、あるいは全てが)堀と同時期か否かは不明である。
 ところで2基の方形区画遺構が同時に存在したかどうか、あるいは第1号遺構の東辺堀と第2号遺構の西辺堀とが共有し合ったのか、接していたのか、離れていたのかなどは明らかにすることができず、問題として残った。出土遺物の上では、第2号遺構からの遺物が少なくいずれも古墳時代前期に収まると思われるので第1号遺構との明確な時間差は言えない。ただ、両遺構が全く別の遺構とは考えられず、構築時期・廃絶時期とも若干時間差があるとしても、2基でひとつの役割を果たしていたと思われ、各々の遺構はその機能により区別されていたものと考える。そのことは、第1号遺構に突出部や布堀溝があるのに対して、第2号遺構には突出部がなく、布掘溝が一部にしかないことからも言えようか。
 方形区画遺構と同時期に存在したと思われる住居跡は、第3号・6号・16号・22号遺構などで、古墳時代前期の土器が出士している。ただし、いずれも遺構を掘り下げて出土したものではないので、後代の遺構に混入した遺物の可能性もある。この方形区画遺構と住居跡の関係で注目される点は、ひとつは区画の内外に住居跡が存在すること。ひとつは第1号遺構の中の大形住居第22号遺構の存在である。区画の内外に住居跡があること、言い替えれば、集落内に方形区画遺構があることは、方形区画遺構の性格と集落の性格を考える上で重要な点である。一方第22号遺構はやや大形な点の他、さらに内側を布掘溝で区画されている点から、第1号遺構の中で主要な位置を占めていた建物の可能性があると言える。
 四斗蒔遺跡の地理的位置より、荒川上流域の遺跡群と小貝川・五行川流域の遺跡群を結ぶルート上に位置することがわかる。かつて橋本澄朗氏は、遺跡の分布や土器・周溝墓のあり方から古墳出現期に荒川流域を拓いた人々が五行川・小貝川を経由してきた可能性を指摘しているが、四斗時遺跡はそのルートの空隙を埋める箇所に位置するのである。
 さらに四斗蒔遺跡の地理的位置を見るならば、荒川を渡ることにより、那珂川流域の遺跡群とは最も近接する位置にあると言える。四斗蒔遺跡と那珂川流域の遺跡群との間は、調査例の僅少さや金枝軍沢遺跡の存在などを考えると、今後該期遺跡が確認される可能性がある。また、後の東山道が四斗蒔遺跡の南を通り、那須地方に抜けていることも考えると、それ以前の時期に四斗蒔遺跡付近から那珂川流域に抜けるルートが存在していた可能性は否定できないものである。
 このように四斗蒔遺跡は、小貝川・五行川流域から荒川上流域へのルートと那珂川流域へのルートの分岐点に位置すると言える。それは、流通・交通の要所であり、時代の背景によっては軍事的要所とも言える位置であり、四斗蒔遺跡はそのような位置に成立したのである。
NAID :
都道府県 : 栃木県
時代 古墳
文化財種別 史跡 考古資料
遺跡種別 城館 その他
遺物(材質分類) 土器
学問種別 考古学
他の電子リソース :
総覧登録日 : 2021-11-26
wikipedia 出典テンプレート : {{Citation ... 開く
wikipedia 出典テンプレート : {{Citation|first=真一|last=安永|contribution=栃木県塩谷郡氏家町四斗蒔遺跡について|title=研究紀要|date=1992-03-31|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/105394|location=栃木県下都賀郡国分寺町大字国分乙474|ncid=AN10460944|doi=10.24484/sitereports.105394|volume=1}} 閉じる
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この論文は下の刊行物の 55 - 84 ページ に掲載されています。

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