所謂中世遺跡出土の烏帽子について 烏帽子雑考
山口 耕一
( YAMAGUCHI Kouichi )
全国でも出土例の少ない服飾具の中の烏帽子について、下古館遺跡出土遺物を中心に、絵画資料等を使い若干の検討をおこなってみたい。
神奈川県鎌倉市今小路西遺跡、福岡県福岡市博多区博多駅築港線関係遺跡(博多遺跡群)、栃木県下都賀郡国分寺町下古館遺跡出土烏帽子について検討を加えてみたい。
いずれも13世代から15世紀代の遺跡出土のものである。考古遺物としては非常に類例が少なく比較検討することもままならないのでこの後も若干絵画資料を用いて比較検討を行ってみたい。
烏帽子は中世において、成人男子のみが被ることができたものである。成人といっても年齢的に成人に達したからといって皆が被れるものではなく、烏帽子親から烏帽子とともに烏帽子名を付与され、元服式を行い髻を結わなければ被れないものなのである。烏帽子は現代人には想像もつかないが、被る人の身分を示す働きと共に、頭部(髻)を隠すものであった。絶対と言ってよいほど頭部は他人には見せないのである。そのためには昼夜屋内屋外を問わず就寝中でさえも被っていなければならないのである。就寝中においても被ったまま寝ている様子は「親鸞上人絵伝」にも見ることができる。また、常に烏帽子が落ちないようにする為には、髻に烏帽子を左右からの紐によって縛りつけるわけであるが、その為の紐と思われるものが、下古館遺跡出土の破片には見ることができる。このように紐によって頭部に固定しているため、争って脱げかけても後頭部の髻によって落ちないのである。絵画資料の中にも小結を結っているのがわかるものがある。
このように、中世において身分を問わず、僧侶、罪人、重病人、死者以外は烏帽子を被っていたわけであるが、各遺跡出土の烏帽子はどのような身分の人が被っていたものなのかは遺物からは明確に判断できない。絵画資料によっても13世紀から14世紀頃の烏帽子は身分によって明確に描き分けられておらず、中世後期から近世期に発達したまねきの角度のきつい侍烏帽子や頂頭掛けをしているものと同様のものが出土しないかぎり、現状ではそれぞれの烏帽子の所有者の身分は、庶民とも武士とも判断はつきかねる。下古館遺跡出土のものは左折れで、博多遺跡群出土のものは右折れであるが、その折りかたも約50種類程度あるといわれているが、この左右の違いは何を意味するものなのかは不明である。
中世遺跡出土の烏帽子について見てきた訳だが、全国での出土数も5~6点前後と非常に少なく、伝世品として残っているものも中世の折烏帽子は非常に数が少なく、近世期のものも有職故実を例としての復元品、復古品であり、材質や製作技法についても不明な点が多い。
中世において成人男性の生活必需品であったにもかかわらず、生産者である烏帽子折の所在地も17世紀の京では、「洛ノ南ニ在り」とありこの後やや下ると烏帽子屋は、「室町一条上ル町、この他、所々にあり」(人倫訓蒙図集)という程度しか判明しない。謡曲「烏帽子折」では、奥州へ下る牛若丸が近江国境の里に於いて元服する為に烏帽子を供の者が調達するわけであるが、地方での生産、消費流通や価格など商品としての烏帽子を今回述べることができなかった。今後、他の遺物などもともに商品経済の検討を行ってみたい。
神奈川県鎌倉市今小路西遺跡、福岡県福岡市博多区博多駅築港線関係遺跡(博多遺跡群)、栃木県下都賀郡国分寺町下古館遺跡出土烏帽子について検討を加えてみたい。
いずれも13世代から15世紀代の遺跡出土のものである。考古遺物としては非常に類例が少なく比較検討することもままならないのでこの後も若干絵画資料を用いて比較検討を行ってみたい。
烏帽子は中世において、成人男子のみが被ることができたものである。成人といっても年齢的に成人に達したからといって皆が被れるものではなく、烏帽子親から烏帽子とともに烏帽子名を付与され、元服式を行い髻を結わなければ被れないものなのである。烏帽子は現代人には想像もつかないが、被る人の身分を示す働きと共に、頭部(髻)を隠すものであった。絶対と言ってよいほど頭部は他人には見せないのである。そのためには昼夜屋内屋外を問わず就寝中でさえも被っていなければならないのである。就寝中においても被ったまま寝ている様子は「親鸞上人絵伝」にも見ることができる。また、常に烏帽子が落ちないようにする為には、髻に烏帽子を左右からの紐によって縛りつけるわけであるが、その為の紐と思われるものが、下古館遺跡出土の破片には見ることができる。このように紐によって頭部に固定しているため、争って脱げかけても後頭部の髻によって落ちないのである。絵画資料の中にも小結を結っているのがわかるものがある。
このように、中世において身分を問わず、僧侶、罪人、重病人、死者以外は烏帽子を被っていたわけであるが、各遺跡出土の烏帽子はどのような身分の人が被っていたものなのかは遺物からは明確に判断できない。絵画資料によっても13世紀から14世紀頃の烏帽子は身分によって明確に描き分けられておらず、中世後期から近世期に発達したまねきの角度のきつい侍烏帽子や頂頭掛けをしているものと同様のものが出土しないかぎり、現状ではそれぞれの烏帽子の所有者の身分は、庶民とも武士とも判断はつきかねる。下古館遺跡出土のものは左折れで、博多遺跡群出土のものは右折れであるが、その折りかたも約50種類程度あるといわれているが、この左右の違いは何を意味するものなのかは不明である。
中世遺跡出土の烏帽子について見てきた訳だが、全国での出土数も5~6点前後と非常に少なく、伝世品として残っているものも中世の折烏帽子は非常に数が少なく、近世期のものも有職故実を例としての復元品、復古品であり、材質や製作技法についても不明な点が多い。
中世において成人男性の生活必需品であったにもかかわらず、生産者である烏帽子折の所在地も17世紀の京では、「洛ノ南ニ在り」とありこの後やや下ると烏帽子屋は、「室町一条上ル町、この他、所々にあり」(人倫訓蒙図集)という程度しか判明しない。謡曲「烏帽子折」では、奥州へ下る牛若丸が近江国境の里に於いて元服する為に烏帽子を供の者が調達するわけであるが、地方での生産、消費流通や価格など商品としての烏帽子を今回述べることができなかった。今後、他の遺物などもともに商品経済の検討を行ってみたい。