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古墳時代後期の朝鮮半島系冑

内山 敏行 ( UCHIYAMA Toshiyuki )
 日本列島の後期古墳から朝鮮半島系の竪矧板冑が出土する。その中には、三国時代の社会で身分を示した突起付冑を含む。倭の冑はそれらの形態を採用せず、製作技法だけを衝角付冑に採用する。以上を論じ、朝鮮半島の身分制と軍制に関わる人物が6世紀の半島列島間交渉で往来・活動したが、その身分標識が倭に定着しなかったと考える。

 冠帽系冑は普通の武具ではなく、冠帽の身分表示機能を合わせ持つ。冠帽系冑が確認されている5世紀後葉~6世紀前葉の伽耶地域で、軍事的職能と政治的身分が深く関連していたことを意味する。軍人が社会的にも高い身分を持ったか、または身分の高い人物が軍事指導者を兼任したということである。社会的・軍事的緊張の高い社会を復元できる。
 6世紀中~後葉以後、冠帽系冑の身分秩序が崩れたか、それにかわる新しい制度が整備されたのだろう。朝鮮半島の冠帽系冑は突起付冑に変化し、さらに、冠帽も副葬されなくなってゆく。
 古墳時代の倭の冑には、朝鮮化現象が2回ある。中期第3段階(古墳時代中期後菓)と、後期第2段階(後期中葉)である。上下2段の横長の地板(三角板や横矧板)を胴巻板で合わせて作るそれまでの倭系冑が、このとき、縦長の地板(竪矧板)を使うように変化する。
 この2回の画期には、冑以外にも朝鮮半島系の各品日・各技術がまとまって流入する。朝鮮半島と日本列島との交渉が活発化した時期である。
 朝鮮半島系の突起付冑が日本の後期古墳から出土することは、突起付冑を持つ政治的・軍事的身分を持って、朝鮮半島のおそらく伽耶地域で活動した人物が6世紀の半島-列島聞の政治的交渉にあたって往来した可能性を示す。冠帽系突起付冑は限定された着用者の身分を示す標識であり、単なる輸出品として倭に渡ったとは考えにくいからである。
 日本列島に来た突起付冑は、身分標識として定着しなかった。その形態(form)を倭の甲冑様式に取り入れた様子がないからである。渕の上1号墳のような小古墳(円墳?)が突起付冑を副葬することから、倭では身分標識の用をなさないために、二次的所有者ヘ移動したのかもしれない。朝鮮三国や伽耶と倭の社会成層(地位の序列)の中味が違い、また、倭の身分制(制度化された地位体系)の整備が遅れていたことが背景だろう。
 冑だけでなく、挂甲や金銅製品類(飾大刀・金銅装馬具・装身具)も朝鮮半島から古墳時代の日本列島に持ち込まれ、一部は倭に定着して模倣生産される。これらは、朝鮮三国や伽耶の社会の身分標識であった。朝鮮側の社会から見て、社会的身分の格付けを全く伴わない、単なる輸出品だとは考えにくい--最終的な倭の所有者が、遠来の珍しい宝物としか見ていなかったとしても。また、倭でも一部は単なる威信財(prestige goods) でなく、身分標識(status symbols)の意味を持ち始めていた可能性がある。飾大刀についてすでに指摘されている(向坂1971など)。他の遺物と共に、さらに検討したい。
NAID : AN10460944
時代 古墳
文化財種別 考古資料
遺跡種別 古墳
遺物(材質分類) 金属器
学問種別 考古学
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総覧登録日 : 2021-11-26
wikipedia 出典テンプレート : {{Citation ... 開く
wikipedia 出典テンプレート : {{Citation|first=敏行|last=内山|contribution=古墳時代後期の朝鮮半島系冑|title=研究紀要|date=1992-03-31|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/105394|location=栃木県下都賀郡国分寺町大字国分乙474|ncid=AN10460944|doi=10.24484/sitereports.105394|volume=1}} 閉じる
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この論文は下の刊行物の 143 - 165 ページ に掲載されています。

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