盛岡市内の古代竪穴建物跡における「カマド納め」について
About the ritual of abolishing the "Kamado (kitchen range)" in an ancient pit building site in Morioka City
今野 公顕
( KONNO Tadaaki )
盛岡市内の古代の竪穴建物跡におけるカマド納め(カマド廃絶儀礼)事例を集成したところ、9 世紀半ば以降から10 世紀にかけてみられる。全ての竪穴建物跡から見つかっているわけではないことは、カマドを使っていた人達の信仰の違い、社会的地位、出自など、どの要因によるのかも不明としか言えない。荒屋遺跡の小型手捏ね土器を煙道に納める事例がカマド納めの痕跡であれば、今のところ盛岡市域でもっとも古い事例と言える。また、荒屋遺跡の不明土製品や二又遺跡の洋梨形土製品が土馬の部品の可能性も加味し、その実施者の出自もしくは宗教的な影響は関東地方と関係があることが指摘できる。
カマド納めが出現する9世紀前葉から10 世紀代は、斯波郡建郡後の胆沢城一城体制下における律令体制の変化にともない、地域有力者層の勃興と社会の安定化によって、多賀城方面から北上してきた宗教者達などが、各集落に伝えた可能性が考えられる。拠点集落には国家的祭祀や仏教儀式などが伝わり、関東系の民間祭祀の一文字ないし数文字の吉祥句などを記す墨書土器を使うことなどと一緒にカマド納めが一般集落へ流入し拡散した可能性がある。カマドに対する信仰は、貴族の日記などに見られるような都の竈神信仰と、古墳時代以降の在地の信仰があったが、庶民層においては在地信仰と融合した信仰の形に発展したものと推察できる。
カマド納めが出現する9世紀前葉から10 世紀代は、斯波郡建郡後の胆沢城一城体制下における律令体制の変化にともない、地域有力者層の勃興と社会の安定化によって、多賀城方面から北上してきた宗教者達などが、各集落に伝えた可能性が考えられる。拠点集落には国家的祭祀や仏教儀式などが伝わり、関東系の民間祭祀の一文字ないし数文字の吉祥句などを記す墨書土器を使うことなどと一緒にカマド納めが一般集落へ流入し拡散した可能性がある。カマドに対する信仰は、貴族の日記などに見られるような都の竈神信仰と、古墳時代以降の在地の信仰があったが、庶民層においては在地信仰と融合した信仰の形に発展したものと推察できる。