URL |
https://sitereports.nabunken.go.jp/103977
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引用表記 |
川崎市教育委員会生涯学習部文化財課 2007 『川崎市文化財調査集録』川崎市教育委員会
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川崎市教育委員会生涯学習部文化財課 2007 『川崎市文化財調査集録』
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wikipedia 出典テンプレート :
{{Cite book|和書|first=|last=川崎市教育委員会|title=川崎市文化財調査集録|origdate=2007-03-31|date=2007-03-31|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/103977|ncid=AN00160649|ncid=BN03342855|volume=42}}
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ファイル |
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書名 |
川崎市文化財調査集録 |
発行(管理)機関 |
川崎市
- 神奈川県
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書名かな |
かわさきし ぶんかざい ちょうさ しゅうろく |
副書名 |
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巻次 |
42 |
シリーズ名 |
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シリーズ番号 |
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編著者名 |
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編集機関 |
川崎市教育委員会生涯学習部文化財課
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発行機関 |
川崎市教育委員会
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発行年月日 |
20070331 |
作成機関ID |
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郵便番号 |
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電話番号 |
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住所 |
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報告書種別 |
年報・紀要・研究論集・市史研究等・文化財だより
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資料タイプ |
Research Paper |
発掘調査報告 |
掲載されている(発掘調査報告書総目録の掲載対象) |
所蔵大学(NCID) |
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JP番号 |
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他の電子リソース |
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備考 |
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所収論文 |
タイトル |
川崎市域の中世の古道について |
英語タイトル |
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著者 |
中西 望介
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ページ範囲 |
1 - 33
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NAID |
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都道府県 |
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時代 |
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文化財種別 |
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遺跡種別 |
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遺物(材質分類) |
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学問種別 |
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テーマ |
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他の電子リソース |
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引用表記 |
wikipedia 出典テンプレート :
{{Citation|first=望介|last=中西|contribution=川崎市域の中世の古道について|title=川崎市文化財調査集録|date=2007-03-31|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/103977|ncid=AN00160649|ncid=BN03342855|volume=42}}
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抄録(内容要約) |
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所収遺跡 |
遺跡名 |
川崎市緑ヶ丘霊園内遺跡第4地点 |
遺跡名かな |
かわさきしみどりがおかれいえんないいせき |
本内順位 |
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遺跡所在地 |
川崎市高津区上作延字北原26-2 |
所在地ふりがな |
かわさきしたかつくかみさくのべあざきたはら |
市町村コード |
13134 |
遺跡番号 |
津田山-18 高津区-31 |
北緯(日本測地系)度分秒 |
353603 |
東経(日本測地系)度分秒 |
1393536 |
北緯(世界測地系)度分秒 |
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東経(世界測地系)度分秒 |
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経緯度(世界測地系)10進数(自動生成) |
35.6041 139.5901
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※当該位置周辺を表示し、同一名称の遺跡データが存在する場合は遺跡をポイント表示します。
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調査期間 |
20060224-20060318
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調査面積(㎡) |
890
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調査原因 |
墓地整備 |
遺跡概要 |
種別 |
集落
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時代 |
縄文
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主な遺構 |
土杭25
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主な遺物 |
土器 早期(撚糸文系土器)
前期(諸磯c式)
中期
後期(磨製石斧・磨石)
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特記事項 |
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種別 |
集落
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時代 |
弥生
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主な遺構 |
竪穴住居址1
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主な遺物 |
土器(壺・甕・高杯・鉢)
石器(磨石)
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特記事項 |
弥生時代後期 |
種別 |
集落
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時代 |
古墳
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主な遺構 |
竪穴住居址4
溝状遺構1
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主な遺物 |
土師器(甕・甑・杯・鉢)
須恵器(甕)
土製品(手捏土器・模造鏡・玉・不明)
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特記事項 |
4号住居址では、竃右脇の貯蔵穴から完形の土師器杯・鉢が7個体まとまって出土した。また同住居跡床下面からは土製模造鏡が出土している。 |
種別 |
集落
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時代 |
中世(細分不明)
近世(細分不明)
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主な遺構 |
溝状遺構3
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主な遺物 |
陶器
磁器
土器
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特記事項 |
今回調査された緑ヶ丘霊園内遺跡第4地点は、多摩丘陵の北東側、南東に向かって張り出す台地平坦部のほぼ中央、川崎市緑ヶ丘霊園内の中央部分にあたる。今回の調査地点は平成5年に調査が実施された第3地点の南西側にある。 縄文時代では、土杭28基が検出され、このうち26基が陥し穴と考えられるものである。時期は判然としないが、一部で撚糸文系土器が出土していることから。大半が縄文時代早期の所産と考えられる。 弥生時代後期では住所址一軒が検出された。在地系ドキヲ主体とするが吉ヶ谷土器が伴出して出土している。遺物の様相から弥生時代後期中葉ー後半の所産であると考えられる。 古墳時代後期では4件の住居跡が検出されたが、全体的に依存状況が悪く、比較的に遺存状況がよかったのは4号住居址のみである。4号住居址は日田壁に竈を有する住居跡で、床面ー下層にかけてまとまった遺物の出土が認められた。本址では竈の左右脇から1基ずつ貯蔵穴と思われる施設が確認されたが、右脇に存在する貯蔵穴からは、完形の土師器杯6点・鉢1点が並べられた状況で出土しているが、並べられた土器の口縁部と床面の高さが揃えられており、住居廃棄の際に意図的に置かれた可能性が考えられる。また、本住居跡の床下面から土製模造鏡が出土している。遺物出土状況から判断して、地鎮が執り行われたものと考えられる。遺物のようそうから6世紀後半の所産と考えられる。 このほか、1号溝状遺構は、断面が薬研形を呈するもので覆土の様相や出土遺物から古代ー中世の所産と考えられ、第3地点で検出されているSD-01・03・04のいずれかと同一である可能性が考えられる。他の3条の溝状遺構は出土遺物が少なく、時期は判然としないが、覆土の様相から近世以降の所産と考えられる。
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要約 |
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