[ その他 ]
2024-01-14
宮城県
宮城県考古学会阿武隈水系研究会
第15回阿武隈水系研究会
permalink : https://sitereports.nabunken.go.jp/event/1030
1.時 2024年1月14日(日)13時~
2.研究会
白石市越河五賀中郷良 覚永寺(小川真氏) ※集合場所は裏面参照
3. 研究会内容
①馬場台遺跡出土資料見学
『白石市史考古資料篇』(1976)に馬場台遺跡出土旧石器が2点掲載されている。市史の記述によれば、上馬場遺跡 (02021)・中郷良遺跡(02020)の2遺跡が統合され、馬場台遺跡とされた。市史には、白石市越河馬場台遺跡 尖頭器? 保管者、所有者:片倉(信光)・不忘研と記されている。掲載石器写真2点のネーミングには、「越河村字五賀 馬場山ノ墓□□ヨリ 昭和23年 発見者 小川惠見」「剥片 覚永寺附 越河 昭和23年 産地寺墓所附近」とある。市史の「各時代の概観」(後藤勝彦・中橋彰吾)によれば、馬場台遺跡は白石市・刈田郡内の地点不明も含めた旧石器時代9遺跡のうちのひとつであり、「このことは県内旧石器研究の出発は、白石市周辺にあったことを示すのであろう。」とする。
今回、小川惠見氏(現福島県国見町在住)・小川真氏からの聞き取り調査と、小川信行・惠見兄弟・小川真氏、2代にわたる収集品の調査を行うことができた。旧石器の発見にあたっては、惠見氏に旧制白石中学校(卒業時には白石高校)時代の亘理梧郎氏の指導があったこと、亘理梧郎氏は國學院大學4年の片倉信光氏が同道した、昭和8年5月11日に行った指導教授鳥居龍蔵博士の講演会(白石公会堂)で深く感銘を受け、医師志望から考古学志望に進路変更(「考古学熱に火がついた」亘理梧郎2014『わらし子の街角余聞』)し、片倉を追い、國學院大學に入学したこと、2・26事件を目撃し、時局がら?考古学ではなく近世史に「転向」し、昭和15年に卒業、徳川林政史研究所・旧制城北中学校で教職に就き、東京大空襲の後の昭和20年5月に東京を引き揚げ、旧制白石中学校の教壇に立つことになり、戦後は部長飯沼寅治・副部長亘理梧郎として郷土研究部(『郷土研究部報』1947年12月20日)を指導したことなどが明らかになった。昭和27年に宮城県教育委員会の文化財担当、昭和34年には宮城県図書館勤務となり、仙台に転居している。小川惠見氏自身は郷土研究部ではなく生物部に所属し、亘理氏からは個人的に石器に関する教えを受けていた。なお、戦中戦後、片倉氏も白石に戻り(片倉信光編1958『郷土の話し』)、郷土研究部の名誉顧問のような形で関与し、部報にも寄稿している。亘理梧郎氏は2013年に享年99歳で亡くなられ、遺稿集が遺族によって刊行されている。
今回見学する覚永寺が保管する石器(裏面参照)は、大型の槍先形尖頭器、石鏃ほかである。現在草付きになっている露頭からも石器や土器が採取され、黒色土層の下、黄褐色土層中に遺物が包含されていたこと、土器はいずれも爪先ほどの小片で、4~5㎝大のものが一番大きい破片であったこと、いずれも薄手無文土器で、割れ口断面はやや黒みを帯びるサンドイッチ状をなしていたこと、現在所在不明であること、いわゆる縄文土器は出土していないことも、聞き取り調査により確かめている。
②覚永寺(『光沢山覚永寺縁起』によれば、慈覚大師創建)境内の「熊谷椿」後継木見学
寺伝による古道(越河五賀小野作~熊谷(旧覚永寺跡)~斎川大義寺or馬牛館)巡検
『縁起』によれば、承元の昔、熊谷直実が住持したること、後鳥羽上皇御局の鈴虫松虫が山内に四十八願をかけ、四十八本の椿を植えたことが記されている。
2.研究会
白石市越河五賀中郷良 覚永寺(小川真氏) ※集合場所は裏面参照
3. 研究会内容
①馬場台遺跡出土資料見学
『白石市史考古資料篇』(1976)に馬場台遺跡出土旧石器が2点掲載されている。市史の記述によれば、上馬場遺跡 (02021)・中郷良遺跡(02020)の2遺跡が統合され、馬場台遺跡とされた。市史には、白石市越河馬場台遺跡 尖頭器? 保管者、所有者:片倉(信光)・不忘研と記されている。掲載石器写真2点のネーミングには、「越河村字五賀 馬場山ノ墓□□ヨリ 昭和23年 発見者 小川惠見」「剥片 覚永寺附 越河 昭和23年 産地寺墓所附近」とある。市史の「各時代の概観」(後藤勝彦・中橋彰吾)によれば、馬場台遺跡は白石市・刈田郡内の地点不明も含めた旧石器時代9遺跡のうちのひとつであり、「このことは県内旧石器研究の出発は、白石市周辺にあったことを示すのであろう。」とする。
今回、小川惠見氏(現福島県国見町在住)・小川真氏からの聞き取り調査と、小川信行・惠見兄弟・小川真氏、2代にわたる収集品の調査を行うことができた。旧石器の発見にあたっては、惠見氏に旧制白石中学校(卒業時には白石高校)時代の亘理梧郎氏の指導があったこと、亘理梧郎氏は國學院大學4年の片倉信光氏が同道した、昭和8年5月11日に行った指導教授鳥居龍蔵博士の講演会(白石公会堂)で深く感銘を受け、医師志望から考古学志望に進路変更(「考古学熱に火がついた」亘理梧郎2014『わらし子の街角余聞』)し、片倉を追い、國學院大學に入学したこと、2・26事件を目撃し、時局がら?考古学ではなく近世史に「転向」し、昭和15年に卒業、徳川林政史研究所・旧制城北中学校で教職に就き、東京大空襲の後の昭和20年5月に東京を引き揚げ、旧制白石中学校の教壇に立つことになり、戦後は部長飯沼寅治・副部長亘理梧郎として郷土研究部(『郷土研究部報』1947年12月20日)を指導したことなどが明らかになった。昭和27年に宮城県教育委員会の文化財担当、昭和34年には宮城県図書館勤務となり、仙台に転居している。小川惠見氏自身は郷土研究部ではなく生物部に所属し、亘理氏からは個人的に石器に関する教えを受けていた。なお、戦中戦後、片倉氏も白石に戻り(片倉信光編1958『郷土の話し』)、郷土研究部の名誉顧問のような形で関与し、部報にも寄稿している。亘理梧郎氏は2013年に享年99歳で亡くなられ、遺稿集が遺族によって刊行されている。
今回見学する覚永寺が保管する石器(裏面参照)は、大型の槍先形尖頭器、石鏃ほかである。現在草付きになっている露頭からも石器や土器が採取され、黒色土層の下、黄褐色土層中に遺物が包含されていたこと、土器はいずれも爪先ほどの小片で、4~5㎝大のものが一番大きい破片であったこと、いずれも薄手無文土器で、割れ口断面はやや黒みを帯びるサンドイッチ状をなしていたこと、現在所在不明であること、いわゆる縄文土器は出土していないことも、聞き取り調査により確かめている。
②覚永寺(『光沢山覚永寺縁起』によれば、慈覚大師創建)境内の「熊谷椿」後継木見学
寺伝による古道(越河五賀小野作~熊谷(旧覚永寺跡)~斎川大義寺or馬牛館)巡検
『縁起』によれば、承元の昔、熊谷直実が住持したること、後鳥羽上皇御局の鈴虫松虫が山内に四十八願をかけ、四十八本の椿を植えたことが記されている。
主催宮城県考古学会阿武隈水系研究会・あずま街道探訪会共催
連絡先
事務局 相原淳一(siogama7@gmail.com)、佐藤充(hageyama @dream.jp)