医王寺経塚出土資料とその意義 ―12 世紀後半における富士山信仰の一様相―
藤村 翔
、医王寺経塚出土資料の資料報告を基に、その資料の提起する諸問題について考察を行った。まず資料の年代観については、経筒の紀年銘にある承安四年(1174)の時期と齟齬はなく、僧鑒應による同年三月五日の一括埋納もしくは極めて近接する複数時期における埋納の所産と判断した。。僧鑒應の性格については、同じく鑒の一字を共有し、史料にみえる冨士上人・有鑒(末代)らの活動や医王寺経塚自体の立地から、伊豆走湯山に縁の深い修験僧としての性格が相応しいと判断し、あわせて聖地・富士山周辺を舞台とした修験の拠点として医王寺自体も同時期に整備された可能性を指摘した。また、共通する意匠を有した 2 面の和鏡が揃えられた背景に、勧進僧と鋳物師の密接な関わりがあったこと、またその意匠が埋納される経塚周辺の情景を意識して揃えられた可能性を提起した。最後に、駿河・伊豆周辺の経塚が、当該期の墓域などと同じく、主要な街道沿線やその周辺に立地する傾向が強いことを示し、経塚造営の背景に在地の有力者層やその経営集落による援助などがあった可能性を指摘した。
藤村翔 2019「医王寺経塚出土資料とその意義 ―12 世紀後半における富士山信仰の一様相―」 『富士市内遺跡発掘調査報告書』富士市埋蔵文化財調査報告
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/article/127036
