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浄業寺跡

URL https://sitereports.nabunken.go.jp/71226
引用表記 大成エンジニアリング株式会社 2013 『神奈川県埋蔵文化財発掘調査報告書17:浄業寺跡』大成エンジニアリング株式会社
大成エンジニアリング株式会社 2013 『浄業寺跡』神奈川県埋蔵文化財発掘調査報告書17
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ファイル
書名 浄業寺跡
発行(管理)機関 神奈川県教育委員会 - 神奈川県
書名かな じょうぎょうじ あと
副書名 県道611号(大山板戸)道路改良工事に伴う発掘調査
巻次
シリーズ名 神奈川県埋蔵文化財発掘調査報告書
シリーズ番号 17
編著者名
編集機関
大成エンジニアリング株式会社
発行機関
大成エンジニアリング株式会社
発行年月日 20131203
作成機関ID
郵便番号 1620045
電話番号 0352853155
住所 新宿区馬場下町1-1SIAビル8F
報告書種別
埋蔵文化財(遺跡等)-発掘調査・分布調査・資料調査等
資料タイプ Research Paper
発掘調査報告 掲載されている(発掘調査報告書総目録の掲載対象)
所蔵大学(NCID)
JP番号
他の電子リソース
備考
所収論文
所収遺跡
遺跡名 浄業寺跡
遺跡名かな じょうぎょうじあと
本内順位
遺跡所在地 神奈川県伊勢原市三ノ宮字竹ノ内572-5外
所在地ふりがな かながわけんいせはらしさんのみやあざたけのうち572-5ほか
市町村コード 14214
遺跡番号 伊勢原市№79
北緯(日本測地系)度分秒
東経(日本測地系)度分秒
北緯(世界測地系)度分秒 352442
東経(世界測地系)度分秒 1391701
経緯度(世界測地系)10進数(自動生成) 35.411666 139.283611
※当該位置周辺を表示し、同一名称の遺跡データが存在する場合は遺跡をポイント表示します。
調査期間
20120927-20130322
調査面積(㎡)
982
調査原因 道路改良
遺跡概要
種別
社寺
時代
中世(細分不明)
近世(細分不明)
主な遺構
礎石建物址 - 4(近世)
竪穴状遺構 - 2(近世)
石組 - 5(近世)
配石 - 1(近世)
礫集中 - 2(近世)
集礫 - 6(近世)
石列 - 2(近世)
溝 - 9(近世)
道状遺構 - 3(近世)
井戸 - 2(近世)
土坑 - 44(近世)
段切 - 1(近世)
地下式坑 - 1(中世)
礫集中 - 1(中世)
炭化物集中 - 1(中世)
焼土址 - 2(中世)
溝 - 3(中世)
柱穴列 - 2(中世)
土坑 - 9(中世)
主な遺物
陶磁器(近世)
土器(近世)
炻器(近世)
石製品(近世)
鉄製品(近世)
銅製品(近世)
銭貨(近世)
かわらけ(中世)
瓦(中世)
陶器(中世)
石製品(中世)
輸入磁器(中世)
特記事項 (近世)斜面地を平坦地に造成し、寺域としている。石組や井戸、溝などを検出した。遺構出土遺物の陶磁器に中世瓦が多く混入して見られた。
(中世)区画施設(溝・柵列)を検出。石鍋片や石製風炉が出土した。
要約 浄業寺跡は丹沢山麓末端から流れ出る鈴川右岸の川岸段丘上、標高88.10~88,70mに位置する。調査地は鈴川河川敷より1段高い丘陵裾の平坦な段丘面である。中世期には浄土宗、近世期は黄檗宗の寺院跡とされている。本寺は明治41年に廃寺となっている。中世期は北西から南東へ下る傾斜地で、直接的に寺院と関わる遺構などは検出されなかった。近世期は傾斜地を盛土造成し、現状の平坦地を構築している。設立当初の南北寺域とされる石組遺構や、流路と想定される溝状遺構が検出されたが、18世紀以降は宝永火山灰や礫を廃棄した土坑が多く見られた。

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