地域支配における古代山城の役割

柿沼 亮介 ( Kakinuma Ryousuke )
本研究では古代山城について、その築造・修築・廃絶などの過程をおいながら、時期ごとの国際情勢や国内支配の様相と関連して山城がどのように整備され、また地域支配においてどのような役割を果たしたかを検討した。
『日本書紀』における古代山城の築城記事からは、長門国の城・大野城・基肄城と、高安城・屋嶋城・金田城という二段階で山城が整備されたことが窺える。古代国家は第一段階として、筑紫と関門海峡をまずは死守すべき防衛ラインとして位置づけて山城の運用を開始した。続く第二段階として築かれた高安城は最終防衛ラインであり、かつ飛鳥・藤原の宮都と大阪平野を結ぶ畿内の中央部に位置することから、政権の基盤たる畿内を支配する上での役割をも担っていた。屋嶋城は瀬戸内海への侵攻に備えたものであるが、同時期の瀬戸内地域では交通路や地域支配の拠点から近いところに「一般の軍事拠点」としての山城も整備され、それらは一体として運用された。しかし、あくまで各地で一般的にみられる現象のため、史書には記録されていない。一方で屋嶋城は、想定侵攻経路の監視に特化した特殊な山城であることから、史書にも名がみえると考えられる。金田城は敵襲の監視とそれを筑紫に伝達する役割を担い、堅固な石塁には「見せる城」として意味があったが、島嶼の領域的防衛は想定されておらず、軍事的緊張の緩和にともなっていち早く廃絶した。
多くの古代山城は8 世紀初頭まで存続したが、唐と新羅の対立によって670 年代には日本列島侵攻の可能性は低下していた。それでも存続した理由としては、高句麗の残存勢力や耽羅からの外交使節の来日がなくなる中で、「中華」としての自国の体裁を維持すべく、古代国家が南西諸島や隼人などへの支配を強化したことが関係している。そのため各地の山城は大宰総領の下で維持され、特に南部九州における「辺境」支配の後背地として重視された大野城・基肄城・鞠智城は「繕治」された。
大宝律令の下で山城の管理は大宰総領から国司に移管されたが、引き続き大宰府がおかれた西海道を除く地域では山城は衰退していった。大宝律令の編纂時点では「城」制度の構築が目指されていたが、養老律令の段階で山城の維持は放棄された。一方で西海道の山城は、その軍事的側面は国司の管轄下で、城内に設置された倉庫の管理は大宰府によって担われる形で存続した。倉庫に収められた物資が西海道諸国の共用物となったことにより、日本列島と朝鮮半島との間の海域の人々の活動が活発化すると、たとえそれが肥後国の管内で起こったことではなかったとしても鞠智城まで影響が及び、怪異記事という形で史書に記録されることになった。
柿沼 亮介 2025「地域支配における古代山城の役割」 『第13回鞠智城跡「特別研究」成果報告会』鞠智城跡「特別研究」発表要旨集 https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/article/125713
NAID :
都道府県 : 大阪府 岡山県 広島県 山口県 香川県 愛媛県 福岡県 佐賀県 長崎県 熊本県 大分県 宮崎県 鹿児島県
時代 飛鳥白鳳 奈良 平安
文化財種別 史跡 書籍典籍 歴史資料
史跡・遺跡種別 城館
遺物(材質分類)
学問種別 文献史学
テーマ 制度・政治 軍事
他の電子リソース :
総覧登録日 : 2025-03-29
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