愛鷹山古墳群の被葬者集団とその生産基盤―駿河東部地域の大型群集墳―
FUJIMURA Sho
( 藤村 翔 )
令和3年度に実施した富士市と沼津市による連携事業の成果から、駿河東部地域の愛鷹山南麓に展開した総数1000基にのぼる群集墳を「愛鷹山古墳群」と総称して捉え直した。同古墳群の横穴式石室、装飾付大刀を含む武器や鉄鏃、農工・生産関連具、渡来系遺物などの副葬品、浮島沼ラグーン周辺の集落遺跡等の検討の結果、愛鷹山古墳群の被葬者集団が、倭王権の王領「稚贄屯倉」が近接する浮島沼ラグーン周辺における水陸交通や馬牧、複合的手工業・水産加工拠点の管理、軍備を担ったと推定した。石室規模や副葬品の内容において愛鷹山古墳群では最上位層とみられる千人塚古墳の被葬者は、7世紀中葉における同集団の指導者層とみてよい。