奈良文化財研究所 ホーム
キーワードから探す
一覧から探す
その他
おすすめ
PDFがある書誌登録数
41205 件
( 発行機関数 755 機関 )
現在の書誌登録数
132406 件
( 前年度比 + 1721 件 )
( 発行機関数 1917 機関 )
現在の遺跡抄録件数
147517 件
( 前年度比 + 2091 件 )
現在の文化財論文件数
120560 件
( 前年度比 + 1563 件 )
現在の文化財動画件数
1297 件
( 前年度比 + 113 件 )
( 登録機関数 117 機関 )
文化財イベント件数
1247 件
( 前年度比 + 197 件 )
※過去開催分含む
発行機関一覧 (都道府県別) > 全国 > 国指定史跡筑後国府跡

国指定史跡筑後国府跡

URL https://sitereports.nabunken.go.jp/131653
引用表記 久留米市市民文化部文化財保護課 2023 『久留米市文化財調査報告書447:国指定史跡筑後国府跡』久留米市教育委員会
久留米市市民文化部文化財保護課 2023 『国指定史跡筑後国府跡』久留米市文化財調査報告書447
wikipedia 出典テンプレート : {{Cite book ... 開く
wikipedia 出典テンプレート : {{Cite book|和書|first=道範|last=水原|first2=伸彦|last2=江島|first3=美詠子|last3=米澤|title=国指定史跡筑後国府跡|origdate=2023-03-31|date=2023-03-31|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/131653|location=福岡県久留米市城南町15番3|ncid=BD05566649|series=久留米市文化財調査報告書|volume=447}} 閉じる
ファイル
書名 国指定史跡筑後国府跡
発行(管理)機関 久留米市 - 福岡県
有償頒布・配布ページ https://www.city.kurume.fukuoka.jp
※ 有償頒布・配布していない場合もあります
書名かな くにしていしせき ちくごこくふあと
副書名 国司館地区2
巻次
シリーズ名 久留米市文化財調査報告書
シリーズ番号 447
編著者名
編集機関
久留米市市民文化部文化財保護課
発行機関
久留米市教育委員会
発行年月日 20230331
作成機関ID 40203
郵便番号 8308520
電話番号 0942309225
住所 福岡県久留米市城南町15番3
報告書種別
史跡-発掘調査・分布調査・資料調査等
資料タイプ Research Paper
発掘調査報告 掲載されている(発掘調査報告書総目録の掲載対象)
所蔵大学(NCID)
JP番号
他の電子リソース
備考
所収論文
所収遺跡
遺跡名 筑後国府跡 国司館地区
遺跡名かな ちくごこくふあと
本内順位
遺跡所在地 福岡県久留米市合川町233番地1外
所在地ふりがな ふくおかけんくるめしあいかわまち233ばんち1ほか
市町村コード 40203
遺跡番号 30112
北緯(日本測地系)度分秒
東経(日本測地系)度分秒
北緯(世界測地系)度分秒 331846
東経(世界測地系)度分秒 1303229
経緯度(世界測地系)10進数(自動生成) 33.312777 130.541388
※当該位置周辺を表示し、同一名称の遺跡データが存在する場合は遺跡をポイント表示します。
調査期間
19780714-20020116
調査面積(㎡)
9965
調査原因 記録保存遺構確認調査
遺跡概要
種別
官衙
時代
飛鳥白鳳
奈良
平安
主な遺構
竪穴建物 24軒
掘立柱建物 70棟
柵列 2条
築地 5条
溝 20条
土坑 36基
道路遺構 1条
井戸 4基
土壙墓 7基
火葬墓 1基
主な遺物
土師器
須恵器
施釉陶器
陶硯
輸入陶磁器
土製品
石製品
金属製品
古瓦
特記事項 筑後国府跡推定国司館地区のうち、風祭・井葉地区における未整理・未報告調査の再整理成果を報告。9世紀後半代に存続し、4区画からなる国司館のうち、井葉地区に広がる南区画、および西側に広がる風祭地区の遺構群について出土遺物や遺構を検討・整理した。
要約  本書は、筑後国府跡Ⅱ期政庁期に伴う国司館が広がる、合川町柿ノ内・ギャクシ・風祭・井葉地区を対象とした37地点に及ぶ発掘調査のうち、風祭・井葉地区の発掘調査成果の本報告書である。
 この地区では、7世紀中~後半代には竪穴建物からなる集落が存在し、風祭地区の周辺を通過する大溝からは鍛冶関係遺物や漆工芸関係遺物が多量出土し、付近に工房の存在が想定される。7世紀末~8世紀前半代になるとそれまでの方形プランに加え、長方形プランの比較的大型の竪穴建物、同時に計画方位を5~9°東偏させ、小規模ながら柱筋を揃えた建物群が出現する。8世紀後半代~10世紀前半頃には大型の建物が5°東偏した方位に建物方位を揃え計画的に造営される。以後、14°東偏、真北と計画方位を変えて計画的に配置された建物群が営まれる。9世紀後半になると、周囲を築地、もしくは土塁で囲んだ3つの区画と、その南に隣接し、溝で囲まれた南北半町規模の区画が4区画並んだ国司館が成立する。風祭・井葉地区には、そのうち中央区画の西部と南区画、南地区が存在する。また風祭地区の区画築地外にも、四面廂建物を中心として配置された官衙的な建物群が存在する。国司館は元慶4(883)年6月に発生した筑後国守都御酉殺害事件により廃絶したと考えられる。その後10世紀中頃に政庁が阿弥陀地区から朝妻地区へ移転すると、この地は土壙墓が散在する場所となる。12世紀後半代~15世紀代には、立石地区に所在する中世居館から南方の水源地を結ぶ南北道路が通過し、火葬墓が営まれるという変遷が見られる。

関連文化財データ一覧

このエントリーをはてなブックマークに追加
詳細ページ表示回数 : 166
ファイルダウンロード数 : 0

全国のイベント

外部出力