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中ノ浜遺跡

URL https://sitereports.nabunken.go.jp/27831
引用表記 (公財)山口県ひとづくり財団 山口県埋蔵文化財センタ− 2016 『山口県埋蔵文化財センター調査報告96:中ノ浜遺跡』(公財)山口県ひとづくり財団 山口県埋蔵文化財センタ−
(公財)山口県ひとづくり財団 山口県埋蔵文化財センタ− 2016 『中ノ浜遺跡』山口県埋蔵文化財センター調査報告96
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ファイル
書名 中ノ浜遺跡
発行(管理)機関 (公財)山口県ひとづくり財団山口県埋蔵文化財センター - 山口県
書名かな なかのはまいせき
副書名
巻次 2016
シリーズ名 山口県埋蔵文化財センター調査報告
シリーズ番号 96
編著者名
編集機関
(公財)山口県ひとづくり財団 山口県埋蔵文化財センタ−
発行機関
(公財)山口県ひとづくり財団 山口県埋蔵文化財センタ−
発行年月日 20160325
作成機関ID
郵便番号 753-0073
電話番号 083-923-1060
住所 山口県山口市春日町3-22
報告書種別
埋蔵文化財(遺跡等)-発掘調査・分布調査・資料調査等
資料タイプ Research Paper
発掘調査報告 掲載されている(発掘調査報告書総目録の掲載対象)
所蔵大学(NCID)
JP番号
他の電子リソース
備考
情報源上に表示がないため、巻次は推定により補記
所収論文
所収遺跡
遺跡名 中ノ浜遺跡
遺跡名かな なかのはまいせき
本内順位
遺跡所在地 山口県下関市豊浦町大字川棚
所在地ふりがな やまぐちけん しものせきし とようらちょう おおあざかわたな
市町村コード 35201
遺跡番号
北緯(日本測地系)度分秒 340920
東経(日本測地系)度分秒 1305505
北緯(世界測地系)度分秒
東経(世界測地系)度分秒
経緯度(世界測地系)10進数(自動生成) 34.1588 130.9157
※当該位置周辺を表示し、同一名称の遺跡データが存在する場合は遺跡をポイント表示します。
調査期間
20101015-20101210
調査面積(㎡)
880
調査原因 県道整備
遺跡概要
種別
集落
時代
弥生
中世(細分不明)
主な遺構
土坑18基
柱穴
約100個
墓1基 
主な遺物
縄文土器
弥生土器
土師器
瓦質土器
輸入陶磁器
近世陶器
土製品
石器
石製品
銭貨
鉄製品
特記事項 中世墓から小児骨が出土銭貨が出土 中世期の土錘が出土 中世後半の煮沸具が大量に出土 15〜16世紀の李朝陶器が出土
要約 [中ノ浜遺跡 要約]
 中ノ浜遺跡は、山口県下関市豊浦町大字川棚地内の川棚川河口付近に形成された砂堆地の西端部に立地する。調査区南側に位置する?地区では、中世期に該当する小児骨が出土した土坑墓や柱穴群が検出された。一方、北側に位置する?地区では、遺構はまったく確認されなかった。遺物については、主に?地区の各遺構や厚く堆積した黒色有機質砂層から、土師器や瓦質土器、陶磁器など中世後半代を中心とする遺物が多く出土した。SK7、SP61の上面からは、炭化米が盛られた土師器杯が出土している。このほか弥生時代の遺物として、土器片や磨製石剣片、?地区からは縄文土器片や中世土器片が少量出土した。また、輸入銭や中世期の土錘も出土している。さらに、県内では、出土例が少ない15〜16世紀の李朝の雑釉陶器が多く出土していることが特筆される。今回の調査では、弥生時代の埋葬施設は確認できなかったため、墓域の周辺部であったと推察されるが、中世期後半には、本遺跡は近隣集落の縁辺部であり、響灘に面する小規模な漁村として機能していたこと、さらに、15世紀から16世紀にかけては、大内氏の庇護のもと、貿易港としての側面をもっていたであろうことが、出土遺物から推察できる。 

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