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永田町一丁目遺跡

URL https://sitereports.nabunken.go.jp/78527
引用表記 公益財団法人東京都スポーツ文化事業団東京都埋蔵文化財センター 2016 『東京都埋蔵文化財センター調査報告 308:永田町一丁目遺跡』公益財団法人東京都スポーツ文化事業団東京都埋蔵文化財センター
公益財団法人東京都スポーツ文化事業団東京都埋蔵文化財センター 2016 『永田町一丁目遺跡』東京都埋蔵文化財センター調査報告 308
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ファイル
書名 永田町一丁目遺跡
発行(管理)機関 (公財)東京都教育支援機構東京都埋蔵文化財センター - 東京都
書名かな ながたちょう いっちょうめ いせき
副書名 中央合同庁舎第8号館整備等事業に伴う調査
巻次 2
シリーズ名 東京都埋蔵文化財センター調査報告
シリーズ番号 308
編著者名
編集機関
公益財団法人東京都スポーツ文化事業団東京都埋蔵文化財センター
発行機関
公益財団法人東京都スポーツ文化事業団東京都埋蔵文化財センター
発行年月日 20160229
作成機関ID 13224
郵便番号 2060033
電話番号 0423748044
住所 東京都多摩市落合一丁目14 番2
報告書種別
埋蔵文化財(遺跡等)-発掘調査・分布調査・資料調査等
資料タイプ Research Paper
発掘調査報告 掲載されている(発掘調査報告書総目録の掲載対象)
所蔵大学(NCID)
JP番号
他の電子リソース
備考
所収論文
所収遺跡
遺跡名 永田町一丁目遺跡
遺跡名かな ながたちょういっちょうめいせき
本内順位
遺跡所在地 東京都千代田区永田町一丁目4番8・9号
所在地ふりがな 東京都千代田区ながたちょういっちょうめ4ばん8・9ごう
市町村コード 13101
遺跡番号 37
北緯(日本測地系)度分秒
東経(日本測地系)度分秒
北緯(世界測地系)度分秒 354022
東経(世界測地系)度分秒 1394446
経緯度(世界測地系)10進数(自動生成) 35.672777 139.746111
※当該位置周辺を表示し、同一名称の遺跡データが存在する場合は遺跡をポイント表示します。
調査期間
20150713-20150915
調査面積(㎡)
149.2
調査原因 中央合同庁舎第8号館整備等事業
遺跡概要
種別
その他
時代
古墳
主な遺構
主な遺物
土師器(前期)
特記事項
種別
その他
時代
近世(細分不明)
主な遺構
池跡1
石組溝1
木組遺構1
胞衣皿埋納遺構3
徳利埋納遺構1
埋桶3
土坑16
礎石38
基礎9
ピット13
主な遺物
磁器
陶器
土器
土製品
木製品
銭貨
金属製品
石製品
硝子製品
特記事項 旗本川窪家・保科家屋敷に伴う遺構と遺物
「野州簗田郡荒萩村」の荷札木簡出土
伯爵佐野常民邸に伴う池跡
要約  永田町一丁目遺跡は武蔵野台地東縁部、麹町台地(淀橋台)の南端斜面下部に立地し、「溜池」から北へ伸びる小さな谷に接している。江戸時代の本遺跡周辺は、「虎御門内新道」と呼ばれた旗本の屋敷地であり、当時の絵図から調査地点は、寛永19 ~ 20 年(1642 ~ 1643)頃には旗本川窪家の屋敷地、次いで明暦2年(1656)までには旗本保科家の屋敷地となり、以後幕末まで存続する。また明治維新後は、伯爵佐野常民(日本赤十字社創設者)の屋敷地となっている。今回の調査範囲は、旗本屋敷地内の南東端にあたると想定される。
 調査では3つの遺構確認面が検出され、それぞれの年代は第1面が18 世紀後葉~ 19 世紀中葉と近代、第2面が17 世紀後葉~ 18 世紀前葉、第3面が17 世紀前葉~中葉に属すると考えられる。これを屋敷地の変遷と比較すると、第1面は保科家屋敷から佐野伯爵邸以降、第2面は保科家屋敷、第3面は川窪家屋敷の時期に、それぞれ相当する。池跡(168 号遺構:第1面)は近代の佐野伯爵邸に伴うもの、石組溝(169 号遺構:第1面)は保科家と隣家との屋敷境をなす排水溝と考えられる。235 号遺(土坑:第2面)からは、「野州簗田郡荒萩村」(現在の栃木県足利市)からの荷札木簡が出土しており、遺構出土陶磁器の時期と合わせ、木簡は保科家が下野国内に知行地を有していた天和2年(1682)~元禄9年(1696)の間のものと考えられ、荒萩村は保科家の知行地であった可能性が高いと想定される。

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