URL |
https://sitereports.nabunken.go.jp/24816
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引用表記 |
千葉市文化財調査協会 1988 『平川遺跡群』千葉市文化財調査協会
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千葉市文化財調査協会 1988 『平川遺跡群』
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wikipedia 出典テンプレート :
{{Cite book|和書|first=裕一|last=梁瀬|first2=健一|last2=菊池|first3=六郎太|last3=村田|title=平川遺跡群|origdate=1988-03-31|date=1988-03-31|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/24816|location=千葉県千葉市中央区南生実町1210番地|ncid=BN07427155|volume=昭和61年度}}
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ファイル |
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書名 |
平川遺跡群 |
発行(管理)機関 |
千葉市埋蔵文化財調査センター
- 千葉県
|
書名かな |
ひらかわいせきぐん |
副書名 |
発掘調査報告書 |
巻次 |
昭和61年度 |
シリーズ名 |
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シリーズ番号 |
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編著者名 |
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編集機関 |
千葉市文化財調査協会
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発行機関 |
千葉市文化財調査協会
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発行年月日 |
19880331 |
作成機関ID |
12100 |
郵便番号 |
260-0814 |
電話番号 |
043-266-5433 |
住所 |
千葉県千葉市中央区南生実町1210番地 |
報告書種別 |
埋蔵文化財(遺跡等)-発掘調査・分布調査・資料調査等
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資料タイプ |
Research Paper |
発掘調査報告 |
掲載されている(発掘調査報告書総目録の掲載対象) |
所蔵大学(NCID) |
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JP番号 |
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他の電子リソース |
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備考 |
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所収論文 |
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所収遺跡 |
遺跡名 |
柳井戸遺跡 |
遺跡名かな |
やなぎいどいせき |
本内順位 |
1 |
遺跡所在地 |
千葉県千葉市緑区平川町604-3ほか |
所在地ふりがな |
ちばしみどりくひらかわちょう604-3ほか |
市町村コード |
12105 |
遺跡番号 |
5199 |
北緯(日本測地系)度分秒 |
|
東経(日本測地系)度分秒 |
|
北緯(世界測地系)度分秒 |
353311 |
東経(世界測地系)度分秒 |
1401514 |
経緯度(世界測地系)10進数(自動生成) |
35.553055 140.253888
|
※当該位置周辺を表示し、同一名称の遺跡データが存在する場合は遺跡をポイント表示します。
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調査期間 |
19860502-19860531
19860916-19861009
|
調査面積(㎡) |
2560
1153
|
調査原因 |
平川カントリークラブ造成事業 |
遺跡概要 |
種別 |
|
時代 |
旧石器
|
主な遺構 |
石器集中ブロック2
|
主な遺物 |
石器
有舌尖頭器
尖頭器
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特記事項 |
A〜E地区設定 尖頭器 |
種別 |
集落
|
時代 |
縄文
|
主な遺構 |
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主な遺物 |
縄文土器
石器
石鏃
|
特記事項 |
草創期 土器:前期・後期 早期:稲荷台式・田戸上層式・条痕文期 後期:堀之内式期 |
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遺跡名 |
古台遺跡 |
遺跡名かな |
ふるだいいせき |
本内順位 |
2 |
遺跡所在地 |
千葉県千葉市緑区下大和田2157-1他 |
所在地ふりがな |
ちばしみどりくしもおおわだ2157-1ほか |
市町村コード |
12105 |
遺跡番号 |
5241 |
北緯(日本測地系)度分秒 |
|
東経(日本測地系)度分秒 |
|
北緯(世界測地系)度分秒 |
353248 |
東経(世界測地系)度分秒 |
1401520 |
経緯度(世界測地系)10進数(自動生成) |
35.546666 140.255555
|
※当該位置周辺を表示し、同一名称の遺跡データが存在する場合は遺跡をポイント表示します。
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調査期間 |
19860602-19860614
19860725-19861004
|
調査面積(㎡) |
749
3300
|
調査原因 |
平川カントリークラブ造成事業 |
遺跡概要 |
種別 |
集落
|
時代 |
旧石器
|
主な遺構 |
石器集中ブロック2
|
主な遺物 |
石器
|
特記事項 |
1・2地点の調査区を設定。 |
種別 |
集落
|
時代 |
縄文
|
主な遺構 |
土壙2
|
主な遺物 |
土器
|
特記事項 |
早期・前期 |
種別 |
集落
|
時代 |
古墳
|
主な遺構 |
住居跡7
掘立柱建物跡2
土壙2
|
主な遺物 |
土師器
鉄製品
砥石
軽石
石製紡錘車
|
特記事項 |
前期の集落 1・5号住(焼失家屋) 1住出土の鉄鏃・鎌・鑓鉋?は、市内の前期の遺物としては、稀少例。 |
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遺跡名 |
向ェ遺跡 |
遺跡名かな |
むかえいせき |
本内順位 |
3 |
遺跡所在地 |
千葉県千葉市緑区平川町399他 |
所在地ふりがな |
ちばしみどりくひらかわちょう339ほか |
市町村コード |
12105 |
遺跡番号 |
5202 |
北緯(日本測地系)度分秒 |
|
東経(日本測地系)度分秒 |
|
北緯(世界測地系)度分秒 |
353324 |
東経(世界測地系)度分秒 |
1401520 |
経緯度(世界測地系)10進数(自動生成) |
35.556666 140.255555
|
※当該位置周辺を表示し、同一名称の遺跡データが存在する場合は遺跡をポイント表示します。
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調査期間 |
19860610-19860628
|
調査面積(㎡) |
850
5000
|
調査原因 |
平川カントリークラブ造成事業 |
遺跡概要 |
種別 |
集落
|
時代 |
縄文
|
主な遺構 |
土坑
|
主な遺物 |
土器
石器
|
特記事項 |
早期 前期中葉以降〜前期後半
遺跡名:向ェ遺跡(向上遺跡) 遺跡名かな:むかえいせき |
種別 |
集落
|
時代 |
古墳
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主な遺構 |
住居跡
|
主な遺物 |
土師器
|
特記事項 |
前期:12・22住 |
種別 |
集落
|
時代 |
弥生
|
主な遺構 |
住居跡1
|
主な遺物 |
土師器
須恵器
|
特記事項 |
後期(7世紀前半):33住 |
種別 |
集落
|
時代 |
奈良
|
主な遺構 |
住居跡11
|
主な遺物 |
土師器
須恵器
|
特記事項 |
中頃:4・5住 後半:7・15・25・31・35住 末葉:3・24・32・37住 |
種別 |
集落
|
時代 |
平安
|
主な遺構 |
住居跡
掘立柱建物跡
土壙
方形周溝状遺構
|
主な遺物 |
土師器
須恵器
灰釉陶器
|
特記事項 |
初頭:6・16・30住 前半:17・28・38住 中頃:8・11・13・23・27住 後半:10・14・18住 15住から須恵器大甕片転用硯出土。 1号方形周溝状遺構は、9世紀初頭か。 |
種別 |
集落
|
時代 |
近世(細分不明)
|
主な遺構 |
溝状遺構
|
主な遺物 |
|
特記事項 |
江戸時代中期以降の地境などか? |
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遺跡名 |
南台遺跡 |
遺跡名かな |
みなみだいいせき |
本内順位 |
4 |
遺跡所在地 |
千葉県千葉市緑区平川町 |
所在地ふりがな |
ちばしみどりくひらかわちょう |
市町村コード |
12105 |
遺跡番号 |
5203 |
北緯(日本測地系)度分秒 |
|
東経(日本測地系)度分秒 |
|
北緯(世界測地系)度分秒 |
353306 |
東経(世界測地系)度分秒 |
1401528 |
経緯度(世界測地系)10進数(自動生成) |
35.551666 140.257777
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※当該位置周辺を表示し、同一名称の遺跡データが存在する場合は遺跡をポイント表示します。
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調査期間 |
19860725-19861225
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調査面積(㎡) |
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調査原因 |
平川カントリークラブ造成事業 |
遺跡概要 |
種別 |
その他
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時代 |
近世(細分不明)
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主な遺構 |
土手状遺構
|
主な遺物 |
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特記事項 |
古文書・古絵図に対応している。 |
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要約 |
[柳井戸遺跡 要約] 調査区は、A〜E区。旧石器集中ブロックが2箇所確認された。縄文時代の遺構はなく、土器片(早期・後期)および草創期の尖頭器類が出土した。 [古台遺跡 要約] 旧石器と縄文時代は、遺構・遺物とも希薄である。主体となるのは、古墳時代前期の集落である。7軒の住居跡に2棟の掘立柱建物跡が付随している。2基の土壙も含め、小規模ながら単独で営まれた集落の可能性が考えられる。1号住出土の鉄器類は、当該期の市内の遺跡としては、数少ない例である。 [向ェ遺跡 要約] 小規模ながら、集落と墓域を併せ持った8世紀から10世紀前半まで継続したムラを検出。住所跡の時期的な関係から、東西の2グループに大別が可能。西グループが8世紀に立村後、9世紀に主体が東グループに移動し、10世紀前半の廃村まで継続すると考えられる。方形周溝状遺構は、8世紀末か9世紀初頭頃に造営された可能性が高く、西グループと関係する可能性がある。際立つ遺物はないが、方形周溝状遺構が造営された前後に灰釉陶器を所有する家族が現れており、ムラ内に造墓が可能な階層へと成長した指導者がいた可能性が考えられる。 ・現在は向上遺跡として登録。 [南台遺跡 要約] 土手状遺構は、二重になっており、弘化三年(1846年)の「能真坊・柳井戸野地境一件済口絵図」に描かれた村境に二重土手が描かれており、領主の知行地と百姓林を明確にに区分する目的で築かれた土手と考えられる。慶応三年の南台地域の開墾の記録にある「御林境土手三百四坪」が、この土手状遺構の内側面積に近似値となることから、土手の構築の下限が江戸時代末期と推定される。現在は、平川南台遺跡として登録している。 |