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副書名 : 昭和63年度~平成2年度 静清バイパス(池ヶ谷地区)埋蔵文化財発掘調査報告書
巻次 : 1(遺構編)
シリーズ名 : 静岡県埋蔵文化財調査研究所調査報告
シリーズ番号 : 38
発行(管理)機関 : 静岡県埋蔵文化財センター - 静岡県
発行機関 : 財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所
発行年月日 : 19920331
作成日 : 2013-12-17
団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所静岡県埋蔵文化財調査研究所調査報告第38集油ケ襟遍詮亦遺構編I
昭和63年度〜平成2年度静清バイパス(池ケ谷地区)埋蔵文化財発掘調査報告書1992
財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所池ケ谷<b>遺跡</b>遠景(北より)池ケ谷<b>遺跡</b>
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副書名 : 滝川河川改修に伴う家屋移転地の埋蔵文化財発掘調査
巻次 :
シリーズ番号 :
発行(管理)機関 : 前橋市 - 群馬県
発行機関 : 前橋市教育委員会
発行年月日 : 19881120
作成日 : 2015-11-06
田址についての現況日永における舌代の農業、特に水稲栽培が行われた水田址は、戟後静岡市<b>登呂遺跡</b>の発掘で確認され、世界長初の発見例となった。近年の調査から水田址は、北九州から青森県にまで分布が拡大し、さ
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副書名 : 緊急発掘調査報告書
巻次 : 2
シリーズ番号 :
編著者名 :
箕輪町教育委員会
発行(管理)機関 : 箕輪町 - 長野県
発行機関 : 箕輪町教育委員会
発行年月日 : 19820331
作成日 : 2012-05-15
端を尖らせた刃痕の最も顕著なものを図示した。10cmの長さにわたる先端部に8回の刃痕が認められる。その裏側である右の図は5回の痕跡がある。<b>登呂遺跡</b>出土の杭も全く同様な刃痕が認められている。このように削られて尖らせた杭は前述したように、鉄
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副書名 : 平成24年度静岡県立大学新看護学部棟建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書
巻次 : 4
シリーズ名 : 静岡県埋蔵文化財センター調査報告
シリーズ番号 : 41
発行(管理)機関 : 静岡県埋蔵文化財センター - 静岡県
発行機関 : 静岡県埋蔵文化財センター
発行年月日 : 20140228
作成日 : 2018-03-09
岡平野の南東部、周辺には国の特別史跡である<b>登呂遺跡</b>、弥生時代の<b>遺跡として著名な有東遺跡</b>、古代東海道が発見された曲金北<b>遺跡</b>など、弥生時代から古代の<b>遺跡</b>が多く所在する考古学的にも重要な地域に位置する<b>遺跡</b>です。このたび、静
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副書名 : 平成15年度富士白団地埋蔵文化財発掘調査報告書
巻次 : 3
シリーズ名 : 静岡県埋蔵文化財調査研究所調査報告
シリーズ番号 : 144
発行(管理)機関 : 静岡県埋蔵文化財センター - 静岡県
発行機関 : 財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所
発行年月日 : 20040319
作成日 : 2015-11-19
期になると集落がほとんど検出されず、水田化するなど、弥生後期の海進による平野の湿地化が指摘されている。国指定特別史跡である<b>登呂遺跡と鷹ノ道遺跡</b>は隣接しており、最近になって調査がしばしば行われている。特に<b>登呂遺跡</b>
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副書名 : 平成13年度富士白団地埋蔵文化財発掘調査報告書
巻次 : 2
シリーズ名 : 静岡県埋蔵文化財調査研究所調査報告
シリーズ番号 : 135
編著者名 :
井鍋 誉之
発行(管理)機関 : 静岡県埋蔵文化財センター - 静岡県
発行機関 : 財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所
発行年月日 : 20021031
作成日 : 2014-04-25
度には県立短期大学の建設に伴う調査において静岡平野南部地域でも条里地割りが平安時代に施工されていたことが明らかとなった。一方、弥生時代の調査や研究も継続しており、最近では国特別史跡「<b>登呂遺跡</b>」再整備に伴う調査や静岡平野を代表する中期の「有東<b>遺跡</b>」に
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副書名 : 昭和58年度巴川(大谷川)総合治水対策特定河川事業埋蔵文化財発掘調査報告書(神明原・元宮川遺跡)
巻次 : 1
シリーズ名 : 静岡県埋蔵文化財調査研究所調査報告
シリーズ番号 : 5
発行(管理)機関 : 静岡県埋蔵文化財センター - 静岡県
発行機関 : 財団法人駿府博物館付属静岡埋蔵文化財調査研究所
発行年月日 : 19840328
作成日 : 2016-03-07
として知られも周囲には<b>登呂遺臥有東通臥汐入遺跡</b>などの著名な集落<b>遺跡</b>のほかも宮川古墳乳伊庄谷横穴猟上ノ山遺跡などの古墳群もみられ、この地の中心的な<b>遺跡</b>の一つと考えられていた。ことに、昭和55⑳56年
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副書名 :
巻次 :
シリーズ名 : 福島県文化財センター白河館 研究紀要
シリーズ番号 : 2004
発行(管理)機関 : 福島県文化振興財団 - 福島県
発行機関 : 福島県文化財センター白河館(まほろん)
発行年月日 : 20050331
作成日 : 2020-11-20
告……………………………………………………………………………吉田秀享■まほろん1号炉(原町市大船廴A<b>遺跡</b>15 号製鉄炉の復元炉)における操業条件…………………………………………………………………佐藤健二■「まほろん」に
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副書名 : 平成5年度静清バイパス(池ヶ谷地区)埋蔵文化財発掘調査報告書(第2期調査)
巻次 : 4
シリーズ名 : 静岡県埋蔵文化財調査研究所調査報告
シリーズ番号 : 76
発行(管理)機関 : 静岡県埋蔵文化財センター - 静岡県
発行機関 : 財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所
発行年月日 : 19960331
作成日 : 2014-01-17
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第第第第第第第第下層調査区SK−09 杭の出土状況図SK−09 杭の上端と下端分布図有頭杭接合模式図有頭杭接合実測図有頭杭計測部位名<b>登呂遺跡</b>有頭杭実測図2回
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副書名 :
巻次 :
シリーズ名 : 研究紀要
シリーズ番号 : 8
編著者名 :
財団法人かながわ考古学財団
発行(管理)機関 : (公財)かながわ考古学財団 - 神奈川県
発行機関 : 財団法人かながわ考古学財団
発行年月日 : 20030329
作成日 : 2022-01-04
良•平安時代p J
は今年度から宮ヶ瀬<b>遺跡</b>群という山間部集落を研究テーマとし、中世pJ
は県内の「やぐら」を、近世pJ
は近世<b>遺跡</b>出土の土製品を集成することをテーマとしました。各時代のプロジェクトとも、継
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副書名 :
巻次 :
シリーズ名 : 信濃の風土と歴史
シリーズ番号 : 2
編著者名 :
長野県立歴史館
発行(管理)機関 : 長野県歴史館 - 長野県
発行機関 : 長野県立歴史館
発行年月日 : 19960301
作成日 : 2011-05-16
ズナラ︑トチなどの疼葉広葉樹林が繁茂して︑豊富な木の実を供給L︑またこのような食物逹鎖で野生動物を大量に増殖させました︒この結果︑信州には茅野市の尖石をはじめ︑縄文の大<b>遺跡</b>が残されていますが︑縄
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副書名 : 平成2年度静清バイパス(川合地区)埋蔵文化財発掘調査報告書
巻次 :
シリーズ名 : 静岡県埋蔵文化財調査研究所調査報告
シリーズ番号 : 28
編著者名 :
木下 智章
発行(管理)機関 : 静岡県埋蔵文化財センター - 静岡県
発行機関 : 財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所
発行年月日 : 19910330
作成日 : 2013-12-05
辺の山地に主にスギや暖温帯林を構成するカシ類からなる森林が存在していた可能性がある。この他、暖温帯を中心に生育するマキ属◎ヤマモモ属や中間温帯林を構成するモミ属◎ツガ属などの樹種も生育していた可能性がある。ところで、<b>登呂遺跡でスギの埋没林が認められることや本遺跡</b>
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副書名 : (木製品2・金属器・骨角器)
巻次 :
シリーズ名 : 伊場遺跡発掘調査報告書
シリーズ番号 : 10
編著者名 :
鈴木 敏則
発行(管理)機関 : 浜松市 - 静岡県
発行機関 : 浜松市教育委員会
発行年月日 : 20020310
作成日 : 2016-03-24
で、最初の発掘調査は國學院大学によつて1949年に実施された。これを第1次調査と呼ぶ(國學院1953)。この調査により、伊場<b>遺跡</b>は、浜松市における弥生時代<b>遺跡</b>発掘調査の端緒となったばかりでなく、静岡市の<b>登呂遺跡と並ぶ弥生時代の遺跡</b>
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副書名 : 県道石橋・石和線建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書
巻次 :
シリーズ名 : 山梨県埋蔵文化財センター調査報告書
シリーズ番号 : 62
編著者名 :
山梨県埋蔵文化財センター
発行(管理)機関 : 山梨県埋蔵文化財センター - 山梨県
発行機関 : 山梨県教育委員会
発行年月日 : 19910330
作成日 : 2013-04-23
周堤帯をもった住居杜と見なすことが出来よう。これは著名な<b>登呂遺跡</b>の住居杜のような様相をなすものと思われる。ただし、周堤帯の外側の溝は全周しないようである。2.土器について観音溝<b>遺跡</b>での出土遺物は極めて少ない。遺構的に4号溝と1号
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副書名 :
巻次 : 本文編
シリーズ名 : 伊場遺跡発掘調査報告書
シリーズ番号 : 8
発行(管理)機関 : 浜松市 - 静岡県
発行機関 : 浜松市教育委員会
発行年月日 : 19941224
作成日 : 2016-03-24
に國學院大学によって調査されたのが最初である(文献8)。静岡県内では、<b>登呂遺跡</b>の発掘調査が行われ、考古学上の成果に対する関心も非常に高まっていた時期にあたる。伊場<b>遺跡</b>は、浜松市における弥生時代<b>遺跡</b>発掘調査の端緒であった。また、報
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副書名 : 長浜市国友遺跡
巻次 : 10
シリーズ名 : 北陸自動車道関連遺跡発掘調査報告書
シリーズ番号 : 10
編著者名 :
田中 勝弘
発行(管理)機関 : 滋賀県教育委員会 - 滋賀県
発行機関 : 滋賀県教育委員会文化部文化財保護課/財団法人滋賀県文化財保護協会
発行年月日 : 19880300
作成日 : 2014-04-11
北陸自動車道調査発掘幸昆滋醐激X
―長浜市国友<b>遺跡</b>―1988
賀県教育委員会滋賀県文化財保護協会北陸自動車道関連遺跡発掘調査報告書X
―長浜市国友<b>遺跡</b>―1988, 3
滋
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副書名 : 高地集落における板敷床を伴う住居址の一例
巻次 :
シリーズ番号 :
編著者名 :
川上村教育委員会
発行(管理)機関 : 川上村 - 長野県
発行機関 : 川上村教育委員会
発行年月日 : 19831101
作成日 : 2011-05-16
住居址、静岡県<b>登呂遺跡</b>第1号住居址と千葉県市営総合運動場内<b>遺跡</b>29・31・34号住居址の5例だけである。平出<b>遺跡</b>第22号住居址については、小柱穴の配置からの複元推定であり、総合運動場内遺跡29・31034号住居址についても遺跡が国府跡の近接する地であり、上記3住居址の規模が大きく、集落の中での位置が特異でしかも、柱穴を6〜9個有し、主柱穴である四個の深さに比べて中間の柱穴は浅く、東柱用の柱穴ではなかったかとして板敷床を持った住居址と複元推定している。登呂遺跡第1号住居址においては、床面に多くの本材が遺存していたものの、床板とする考えと板葺屋根の一部とする考えの2つに見解が分かれている。本遺構で検出された床板は、北東隅に長さ約2m50cm、幅20〜27cm、厚さ2〜4 cmの板材を東壁下から平行に北壁に沿って5枚規貝J正しく根太材の上にのせて敷かれていたものと考えられ、板敷推定面積は約3ぽを測る。全プランの推測面積は約19.面であり、およそ6から7分の1の床面は確実に板敷と考えられ、これからの研究資料として貴重なものと思われる。2 主柱穴について佐久地方の鬼高期において柱穴が1基も検出されない例1よ、上桜井北H9017号住、宮ノ北第4号住の3棟報告されており、跡部町田H2号住と曽根城第2号住は主柱穴が1基だけ確認されている。また、関口B遺跡第5号住居址では、住居址中央部に浅く不整形なピットが1基検出されただけで、主柱穴と考えられるピ'卜は確認できなかつたとしている。奈良時代では、資料数が少ないためかt現在のところ柱穴が1基も検出されない住居址の報告例は知られていない。│平安時代では、柱穴の不明確な住居址が多く、むしろ4隅に明確に主柱穴が検出されている例4本柱住居址(!0)
3本柱住居址(2)
中央柱住居址(4)
主柱穴0〜2基住居址柱穴0住居址(!7)
高地・山地住居址(21)
□▽(22)○●☆☆θ●●○●O
最大辺長(cln)200
第17図佐久地方の平安時代住居址規模別分布図は、周防畑AHl・4号住、戸坂Kl号程、舞台場Hl・30号住、宮ノ北第8号住、五ケ城第9
号住、金塚第1号住の8棟だけである。次に、主柱穴が3隅に検出されている例は、周防畑AH
2号住、蛇塚BH3・5号住の3棟あるが、このうち蛇塚B遺跡H3号住居址については、丸山日出夫氏の上屋構造の研究によればカマドの上部に4本目の柱が存在したと考えることができ、4
本柱の住居址と思われる。また、住居址中央付近に柱穴を有する住居址は、上桜井北H6号住、三塚鶴田Hl号住、関口B第3号住、曽根城第3号住の4棟検出されている。前述したように、佐久地方における平安時代の住居址検出例は、報告書から92棟知られているが、プランが破壊されていたり、完掘できなかったり、カマドのみ検出されたなど不明確な住居゛O200最低辺長︵cm︶‑34‑址を除くと、資料的に使用できるのは55棟ある。そのうち柱穴が1基も検出されない住居址は17
棟あり、さらにピットは検出されるが主柱穴と断定できないものや、主柱穴も1基又は2基しか確認できないもの(住居址中央柱穴を有するものは除く)を含めると40棟あり、約73%の割合で主柱穴の不明確な住居址が存在することがわかる。形態は、隅丸方形が多いが方形、隅丸長方形等いろいろなプランも知られている。規模は、第17図に示したように小型〜超大型まであり、この分類からはみだした住居址には五ケ城遺跡第3
号住居址があるが、これは形態が台形で方形プランから著しく異なるためで、他の住居址はほぼ方形に近いということもうかがえる。規模の分布は、小型7棟、中型33棟、大型13棟と超大型1
棟となり、この時期佐久地方では中型の住居址が一般的規模といえそうである。4隅に柱穴を有する住居址の分布を見ると(超大型規模の蛇塚B遺跡H4号住居址は、北西隅に柱穴が検出されていないが、ちょうどその部分に攪乱があり、もし仮りに柱穴があったとすれば同遺跡H3号住居址と同様カマドの上に柱があったと考えられる4本柱の住居址と思われ、その意味ではH3・4号住居址も含めて)、中型2棟。大型7棟・超大型1棟となり、資料数が少ないため速断はできないが、大型住居址に多く存在することがわかる。柱穴が1基も検出されない住居址の分布を見ると小型住居址7棟のうち5棟を占め、中型に11
棟存在するが中型の中規模程度から小型に近い方に多く存在することが見てとれる。しかし、ピットは検出されるが主柱穴と断定できないものや、主柱穴も1基又は2基しか確認できない住居址は、小型〜大型の住居址に満遍なく存在し、規模による偏在は見られない。上述のように、平安時代における住居址の主柱穴の在り方を中心にしてきたわけであるが、主柱穴のはっきりしない住居址は全体の7割弱に達しており、あるいは(主に小型住居址)主柱のない上屋構造の研究を行なわなければならないと考える。また、少数ではあるが住居址中央部に柱穴を有する住居址についても注意してゆきたい。3 高地集落平安時代に見られる山地の集落で、最初に注目して報告されたのは、昭和32年「長野県埴科郡松代町西条地区入組稲場遺跡調査概報」である。その中で、永峯光一氏は「調査は早期縄文土器の発掘に主眼を置いたのであるが予期に反して……新しい土師器と灰釉陶器とを伴う竪穴住居址二箇を発掘する結果となったも然し、現在においても、主要な附近の農耕衆落に較べ、通かに山深い高地に、土師器や灰釉陶器を伴う竪穴住居址を確認したことは、これまであまり注意されていない歴史時代初期村落の性格の一面について、探究の端緒となり得るものであろうと考えている。……決して農耕適地とは考えられない山奥に、土師器や施釉陶器を伴う竪穴住居址が数箇も存したことは、そこに当然農耕以外の生業をもつて少なくとも半定住的な生活を送った人々の居住……律令制から庄園制への過渡的な時期に際しての歴史的動態からも理解されるべき面をもっているのではなかろうか」と高地における平安時代住居址の存在を指摘した。その後、幾つかの報告例がなされ、昭和43年、桐原健氏がこれらを集成・分折して「平安期に見られる山地居住民の遺跡」の中で初めてこうした遺跡の性格について言及した。その中で桐原氏は、まず、「信濃追跡地名表」(1956)と「全国遺跡地図一長野県一」(1967)
を併用して、県内における水稲農耕を生業とするには不適な地に営なまれている遺跡を指摘し、北信地域は73遺跡、中信地域の松本平には32遺跡・木曽谷では35遺跡、東信地域では佐久地方である碓氷の山付近の谷筋の7遺跡を含めて11遺跡、南信地域の八ケ岳周辺に30遺跡、伊那谷は水稲農耕を生業するには不適として除き、山中で営なまれている170遺跡が平安時代の全遺跡の14
%を占めているとし、該期の民衆の生活を考える上に忽がせにできない数値であるとしている。さらに、県内の山上遺跡の調査例7遺跡の分析を行ない、1、遺跡の規模が小さい。2、竪穴の規模がノlヽさくカマドもラフで全体に安直にできている。3、竪穴の重複例が多い。4、どの遺跡からも灰釉陶器が出土しており、出土例は少ないが鉄滓や八稜鏡などが出土している。と以上4点の共通点をあげ平地に営なまれている住居址との比較から山地遺跡の特徴としている。続いて、山地遺跡を構営した人々の性格、生業について言及し、1・2・3の特徴から山中流浪の山の民で、マタギ、本挽、本地屋、箕直し、鍛治鋳掛屋等をあげ、さらに民俗学柳田国男氏の炭焼藤太の伝説や藤森栄一氏がとりあげた奥信濃秋山郷の人々の生活を例にひきながら、鋳物師などの特定の職にたずさわった人々の仮り住いの可能性が強いとし、また、移動的な狩猟のための住いの可能性もあると述べられている。そして、山地遺跡からは灰釉陶器が多く出土することや、追跡の位置が山中を走る交通路、峠に当っていることから、自資運搬の一翼を荷なった自由な民であろうと結んでいる。では現在、佐久地方ではこれら山地の遺跡はどのくらいの数に達するものだろうか。その前に山地の遺跡とは、どのような基準を当てはめたらよいかを考えなければならない。桐原氏は水稲農耕を生業とするには不適な地と一応の目安を設定している。近代、佐久地方の水稲農耕の不可能な地域を考える時、昭和5年田中啓爾氏が「中央高地における米作り高距的限界線は、約1,100米に達し1,300米に至れば全く米作不可能である。又1,100米以下900米の地域は限界線の屈曲地域でそこは早稲本位栽培地であり…・̀']となされている。また、井出正義氏が調べた中世の記録によると、建武2年(1335)の大徳寺文書に鷹野郷(現佐久町高野町、標高740〜760m)には水田が、確実にあったと考えられる記載がなされている。次に畑物村(現八千穂村畑、標高760〜780m)では佃の書き方が他の郷村(平坦部の水田地帯)
の場合と違うことと村の名称から類推して畑作ではなかったかと思われ、さらに保間(現小海町本間、標高800〜820m)では、本畠と記載されており完全な畑作と考えられ、水田はなかったのではないかと思われるとのことである。さらに、井出氏の調査によれば佐久地方における古墳の南限は、佐久町高野町城陰の塚畑古墳(標高740〜760m)と同町平林曽原の入沢20号古墳(標高800〜820m)が当たるとされ、また、それに先行する弥生時代後期のまとまった集落址の南限もやはり佐久町高野町の佐久西小学校裏遺跡(標高760〜780m)であり、弥生時代後期から南北朝時代の稲作の高距的限界線は、標高750〜800mの範囲内に有り900mに至れば全く不可能な地域として問題はないと考える。そこで、佐久地方における標高900m以上の遺跡を高地遺跡と定義し「全国遺跡地図一長野県一」(1983)と「遺跡地名表」(1981)を併用してこれらの遺跡を摘出すると188遺跡知られており、その時代別数は第4表に示したとおりである。弥生時代の18ケ所のうち5遺跡は磨石鏃、扁平片刃石斧の単独出土地で集落址とは考え難く、実質は13遺跡(約7%)に減るものと思われる。高地遺跡全体の各時代の割合は、縄文時代が8割を占め、弥生時代以降では平安時代が約4
割に達するほど多く、弥生時代。古墳時代とその割合は減少している。次に時代別遺跡数からの割合を見ると弥生時代7%、古墳時代6%、平安時代13%となりいずれも平安時代の高地遺跡の占める割合は突出している。また、弥生時代から古墳時代の高地遺跡の割合は、若千であるが減少しておりこのような増カロ・減少については、人々の生産及び社会形態の変化に対応した現象と考える。先に桐原氏が集成した資料に若干の新資料を加えて高地・山地集落の調査報告例を第5。6表に示した。山地集落と高地集落にした理由は、山地集落の中には山中とはいえ小規模な稲作による生活手段の可能性が考えられ、高地集落は概念的には山地集落に包括されるものであるが、前者のような生活手段の可能性は一切考えられない点で分類した。しかし、単純に標高900mとぃう基準線で画一的に社会形態を分割することはできないのでその性格・生業等についてはある程度包括的に押し進めてゆきたい。高地集落は群̀馬県の2遺跡の資料を加えて9遺跡16棟の住居址、山地集落は10遺跡17棟の住居址の存在が確認されている。しかし、その他にも山地・高地集落の概念に含まれない遺跡で単独に検出される住居址がある。佐久市小宮山の後沢遺跡では、弥生時代・古墳時代の集落址の中に平安時代の住居址が1棟だけ単独に検出されている。後沢遺跡は千曲川。片貝川により形成された広大な沖積第4表佐久地方の高地遺跡数と割合時代高地遺跡(B) 害1イト(B/A) 遺跡数(C) 割合(B/C)
先土器11% 49%
縄文81% 16%
弥生10% 271 7%
古墳5% 6%
奈良1 5
平安39% 13%
高地遺跡数(A) 16%
地である野沢平を一望に見渡せる舌状台地に存在する遺跡で山地とは考えられない。同様な例が県内では長野市安茂里の平柴平遺跡、時期は奈良時代であるが同様に単独で塩尻市塩尻桟敷の中島遺跡で検出されている。このような例は南関東で中山吉秀氏(1976)が「離れ国分」として集成、分折されており上述の3例はあるいはその性格の一端を荷った人々の生活址かもしれない。高地・山地集落の遺跡の規模は、群̀馬県熊倉遺跡が特別で住居址と思われる凹地が40ケ所確認されたとしている。他は新水遺跡の5棟が一番多く、1棟あるいは2棟の小規模の遺跡が一般的といえそうである。竪穴規模は推定プランを含めて21棟の資料を使用して前掲した第17図佐久地方の住居址規模別分布図に入れると、最低規模は新水B遺跡第1号住居址の390X320 cmと稲葉遺跡N住居址の(350)
×(350)Cm、最大規模は乗落遺跡の630×(650)Cmである。規模の分布は、佐久地方の住居址の規模で中型とされる中に9棟、大型に10棟、超大型に2棟と分布しており、中型規模の中でも中位から上位付近に偏っている。このことから山地・高地住居址の規模は決して平地の住居址(佐久地方の平地住居址)に比べて小さくはなく、むしろ大型の傾向がある。カマドについては検出されている住居址が23棟あり、そのうち横尾。兵士山。沖ノ沢・池尻遺跡の4棟は保存状態もよく、かなりしっかりした石組のカマドで平地の住居址と比較しても見劣りしないカマドだといえる。他の住居址のカマドについても平安時代のカマドは鬼高期のカマドに比べかなり雑に構築されているものが多くみられ、一概に山上の遺跡の方がラフだとは考えられない。重複関係ではカマドのみ検出の位沢。沖ノ沢遺跡と土師器の出土だけで調査の行なわれていない中の坂遺跡を除くと蒲田、新水A203号住、七本松2号住、稲葉N住、竹之城原第4号住の5ケ所で重複が見られる。他の26棟14ケ所ではみられず平地との比較は行なわなかったが、必ずしも多いとはいえない。出土遺物については、鉄滓、鉄製品が熊倉2号住、兵士山、井堀、七本松1・2・3号住、竹之城原第4号住、八丁原、池尻、稲葉、乗落の11棟とかなり高い率で出土しており、特に七本松遺跡第1号住居址では「工作址」的な見解があり、また、池尻遺跡においてはふいごが出土しており、原島礼二氏の鉄の流通から考えて野鍛治の全国的な分布と関連させ「鍛治址」の性格をもつ住居址かもしれないとしている。次に灰釉陶器が多く伴出していることである。佐久地方の灰釉陶器出土例は、昭和29年「灰釉陶器の諸問題」で芦田村(現立科町)池ノ平、三都和村(現立科町)藤沢、本牧町(現望月町)
印内の三ケ所を出土地として記載されており、その中で大場磐雄氏は「将来必ずや相当量の発見例が追加されることを確信できる」と明言しておられる。続く昭和31年「信濃史料第1巻考古篇上」では、立科村(現立科町)池ノ平、小諸市大塚原、穂積村(現八千穂村)鍛治ノ入の3遺跡‑38‑第5表高地集落一覧表遺跡名所在地立地(標高) 住居址プラン(東西×南北) カマド物遺土出時期備考(文献)
1
4
5
6
7
8
9
沢倉位横尾山本畑明星屋敷蒲田兵土山井堀宮里南安曇郡安曇村南佐久郡川上村小県郡真田FT
群馬県吾妻郡六合村諏訪市南安曇郡安曇村木曽郡王滝村久市県吾妻郡津町馬佐群草山山山地((,400m)
腹(1,354m)
麓(1.240m)
段丘( 1,200m)
地(1,030m)
腹(1,000m)
扇状地(975‑982m)
麓(970m)
地(960m)
ムロ山山台カマドのみ隅丸方形495×(495)cm
鳥{:[1̀悧驚謂帥1住隅丸方形635×632cm
2住〃435×500cm
3住〃540×420cm
4住5住隅丸方形586×572cm
6住〃422×448cm
l棟2棟?
長方形(375)×(440)cm
隅丸台形560×560Cm
不整方形445×470cm
石組カマド西壁南寄り北壁西寄り東壁南寄り南壁西寄│東壁中央東壁南寄り壁東壁央中壁北東南壁西寄り土師器(皿)
土師器(不、甕)、灰釉陶器(皿、境)、焼失住居址土師器(不、甕)、須恵器(不、小形広口壺)、灰釉陶器(不)
〃(″、〃)、〃(耳皿、壺)
土師器(皿、婉、甕)、平石〃( 〃)、鉱滓土師器少量、須恵器(皿、坑、甕)
土師器(皿、甕)
土師器(皿、甕)、須恵器(婉)、灰釉陶器(長頸壺)、平石土師器、須恵器多し、平石土師器(不、甕)、須恵器(不)、灰釉陶器(ナ宛)
土師器(皿、坑、甕、鍔釜)、灰釉陶器(皿、婉)、緑釉陶器(婉)
甕甕土師器(甕)、須恵器(甕)、灰釉陶器(皿、段皿、坑、土師器(不土師器(坑須恵器(不、壺)、灰釉陶器(ナ宛)、鉄製品、祗石須恵器(皿、坑、甕)、灰釉陶器(皿?)、鉱滓9世紀中葉から10世紀前葉平安時代中頃平出第5。6様式東濃系虎渓山1号窯期12世紀前半0 ‑53
9 世紀中葉安一一桐原健(1978)「信濃における蹴馬の党の考古学的考察」『中部高地の考古学』本遺跡川上元・他(1977)「菅平高原山本畑遺跡」F長野県考古学会誌29』能登健(1983)「熊倉遺跡の再調査」『群馬文化193』尾崎喜左雄(1971)「火山噴出物堆積と遺跡」『一志茂樹博士喜寿記念論集』信濃史学会中村竜雄(1968)「伊那と諏訪をむすぶ高地性遺跡」『伊那路12‑4』中島豊晴・樋口昇一(1958)「長野県南安曇郡安曇村蒲田遺跡調査概報」『信濃10‑3』神村透(1978)『御嶽神社里宮遺跡発掘調査報告書』井上唯雄(1974)『井堀遺跡発掘調査報告』草津町教育委員会第6表山地集落一覧表遺跡名所在地地(標高) 住居llLプラン(東西X南北) カマド物遺土出時期備考(文献)
1
2
3
4
水沖ノ沢竹之城原七本松御所平八丁原池尻中の坂稲葉落新乗北佐久郡望月町岡谷市北佐久郡望月町松本市佐久市下高井郡山ノ内町更埴市下水内郡栄村市市諸野小長山麓(860〜870m)
山腹(860m)
山麓(850m)
山腹(850m)
台地(820m)
山腹(800m)
山腹(700m)
山腹(650〜700m)
腹(650m)
麓(560m)
山山カマドのみ方形390×430cm
4拒方形ふר方形410×(410)cm
不整方形350×(450)Cm
長方形490×520cm
141k?
類璧隅tr玖獣重」7m
方形630×(650)cm
東壁南寄り北壁東寄り壁東壁西壁東壁壁西東土師器(不、甕)、焼失住居址〃(″、〃)、灰釉陶器〃(〃、〃)
〃(″、′′)
′′(〃、′′)
土師器(郎、甕)
土師器(不、甕)、灰釉陶器(皿)、鉄製品(紡錘車、釘、鏃、刀子)、焼失住居jlL
土師器、須恵器、灰釉陶器、鉄製品、鉄滓〃、〃、鉄滓土師器(皿、不、甕、鉢)、須恵器(不、甕、蓋、短頸壷、鉢)、灰釉陶器(皿、婉、小日壺)、鉄製器土師質土器(皿、姜)
土師器(皿、甕)、須恵器(甕)、鉄製品土師器(杯、妻、皿)、鉄製品(斧、釘)、鉄滓、砥石垂飾品、土製品(メ、いご)
土師器(不、甕)
土師器(皿)、灰釉陶器土師器、須恵器(甕)、灰釉陶器、鉄製品土師器(1宛)、須恵器(甕)、灰釉陶器(婉、水瓶、小口壺)、鉄製品、鉄滓、八稜鏡10世紀末から11世紀初頭平安時代0 ‑53
10世紀後半から11世紀前半平安時代平出第5・6様式末代代代時時時安安安平平平福島邦男(1981)『新水』望月町教育委員会戸沢充則(1973)『岡谷市史上巻』福島邦男氏の御教示による松本県ヶ丘高校風土研究部(1962) 「三オ山七本松遺跡調査概報」『信濃14‑11』桐原健(1961)「長野県下高井郡山之内町八丁原遺跡調査略報」『信濃13‑6』下平秀夫(1970)「長野県更埴市桑原池尻遺跡調査概報(21」『信濃22‑4』花岡弘(1974)「中の坂遺跡の土師器」『小諸市誌歴史篇(lL
永峯光一・鈴木孝志(1957)「長野県埴科郡松代町西条区入組稲葉遺跡調査概報」『信濃9‑4』桐原健(1968)「平安期に見られる山地居住民の遺跡」『信濃20‑4』第7表佐久地方の灰釉陶器出土遺跡一覧表町名市村遺跡名備考町名市村遺跡名備考立科町(2)
池ノ平昭29。31年調査佐久市周防畑昭54年調査信林昭55年望月町︵10︶笠森中村昭57年〃大昭53年調査兵士山昭54年寺久保B 樋村昭57・58年″善郷寺臼田町︵9︶萩の入(蔵)高見沢勇新水昭56年調査月夜平又久保昭55年〃月通沢胡沢昭56年荒神出井昭57年山一削金塚昭56年西の窪竹之城原日召58年五霊西浅科村(1)
堀久保馬寄寺久保小諸市T︶大塚原高台付皿佐久町︵9︶丸井戸幡在家たつま久保東久保田昭58年調査影宮の昭54・55年″施餓鬼畑五城昭55年〃雁明曽根城昭57年官本昭53年調査佐久市︵22︶裏林千手院倉五領脇皿(底部)
扇平サイカチ平中屋敷八枷(2)
鍛治ノ入高台付皿の堂蓬間2(完形)
蛇塚昭55年調査小海町(1)
八の軽井沢芝宮昭54・55・57年調査本昭47年調査南牧村(1)
中原上桜井昭52年〃塚鶴田昭50年川上村︵3︶馬飼場後沢昭51年切草中道昭46年〃横尾本調査上ノ城昭48年自田町については三石延雄氏より、佐久町、八千穂村、小海町、南牧村については井出正義氏より御教示賜わった。西八町日召58̀「〃西久保昭44・57年〃田南上昭54年〃舞場昭56年〃-4I-
矢口られており、この時点で佐久地方の出土例は5例であった。昭和43年「資器の道(1)」の中では上田市、小諸市、北佐久。南佐久・小県郡を含めて9例と紹介しておら`出土例は増カロしていない。しかし、近年佐久市・小諸市・望月町における緊急発掘調査や県史、各市町村が実施した分布調査等の成果により、爆発的に増加し第7表に示したように66遺跡に達している。現在、佐久地方においても発掘調査による平安時代後半の集落址では上小地区と同様にほとんど灰釉陶器が伴出している。出土した灰釉陶器の種別では皿・婉形土器が一番多く長頸瓶や小瓶も見られ、皿形土器の中には段皿・輪花皿。耳皿などの種類も知られている。佐久地方の灰釉陶器は東濃系のものがほとんどで、三塚鶴田・犬飼遺跡では美濃系のものが報告されており、入山峠遺跡には猿投系のPが、また、西八日町遺跡出上の長頸瓶は10世紀前半の猿投系のものであるとのことである。しかし、佐久地方では折戸53号窯期のものがほとんどと考えられており、すでに述べられているように、この時期灰釉陶器は当地方でも広汎に人々の日常容器として使用されていたものと考えられる。山地。高地集落の時期は、9世紀中葉から10世紀前葉に丼堀・熊倉の2遺跡が存在し、折戸53
号窯期を10世紀中頃から11世紀初頭とすれば、該期に当る遺跡は、横尾。山本畑。明星屋敷・蒲田。兵士山・新水・竹之城原・七本松・稲葉・乗落の10遺跡となり半数以上を占める。このことは灰釉陶器が山上に多く出土するということではなく、広汎に普及した時期に人々の山間への進出が最も積極的に行なわれたものと考えられ、律令制が崩壊し荘園制に移行する時、東国の生産力が高まり灰釉陶器の需要が伸びたとされを)ことと関係があろう。平安時代の末、12世紀前半には里宮。御所平の2遺跡が存在する。人間田宣夫氏(1976)によると、9‑10世紀は摂関政治にいたる準備期間、古代村落の崩壊が進行するなかで中世村落形成の条件がしだいにかたちづくられる先行期としてとらえることができ、10世紀中葉は律令行政村落支配の最終的崩壊期であるとされており中世村落形成が次第に形づくられる時代に当っている。さらに入間田氏は、その中で非農業民集団(鋳物師、檜物師などの手工業者)との不断の接触なしに中世の農業村落が再生産を維持することはできなかったとしこれらの社会的分業の展開なしに中世村落の形成はありえなかったであろうとしている。このような時期(10世紀後半〜11世紀前半)に山地。高地集落が最も多く存在することはあわせて考えてゆく必要があろう。では、これらの山地・高地集落の性格。生業についてであるが、桐原氏が述べているようにマタギ・手工業者(鋳物師・木地屋など)の存在は当然考えられる。しかし、さらに多角的方面から見ることもできると考える。非農業民集団として池尻遺跡の鍛治址、七本松遺跡の工作址などの手工業者集団(鋳物師、本地屋、柚人、檜物師、鍛治など)の生活址、位沢遺跡のような大野牧の放牧場と関係した牧場的‑42‑性格をもった遺跡、また、里宮遺跡は御岳信仰との関連を扱っており山岳宗教関係の遺構も存在したと考えられる。さらに、非農業民集団と解してよいか疑間であるが、横尾遺跡はしばらく登ると信州峠があり、Ⅲ章でも述べられているように昔から甲斐と佐久を結ぶ重要な交通路であり、峠に関係した遺構と考える。他に山本畑・兵士山遺跡も同様な遺跡と考えられており、峠及び交通路に関係した遺跡は数多いと思われる。その他に狩猟関係の遺跡も当然考えられるが、高地遺跡の割合を算出した時、弥生。古墳時代を通じて最低6%は高地に生活している人々がおり、これらの人々を考慮する必要があろう。上述の非農業民集団の生活址は、桐原氏が述べているように一定期間(その期間は長くない)
住んでは去って行く性格をもうていたものが多いと考えられるが、一方、それらばかりではなく住居址の規模が大型でカマドもしっかりしたものを有している住居址が存在することから、長期間にわたり定住した人々もいたと考えられ、能登健氏(1983)が述べているように「畑作を基調にして、狩猟や山仕事に従事するという一つの生活様式」の農業民集団の山への積極的な進出・開拓も考えられる。これらのことから平安時代の山地・高地集落については多方面からの研究が必要と考える。尚、山村の成立期にういて落人伝説がある川上村は興味深く、さらに村内に存在する同時期の兵部。切草遺跡などから平安時代後半まで遡ると考えるのは飛躍であろうか。(高村博文)
註1 焼失住居址の基準としては、焼土・炭化材よりは、カヤを主体とした解体炭化物の存在が火災住居址としての必須の条件と考えられ、床面上覆土の炭化粒の頻度の考慮によるべきとの考えもあるが、本報告では特に基準を設けず、報告書の記載に従う。註2 佐久市教育委員会(1976)『市道』註3 佐久市教育委員会(1978)『跡部町田』註4 佐久市教育委員会(1981)『下小平遺跡』註5 小諸市教育委員会(1981)『五ケ城』註6 日田町教育委員会(1980)『井上遺跡』註7 望月町教育委員会(1981)『新水』註8 昭和58年度発掘調査により検出されている。竹之城原遺跡については福島邦男氏の御教示による。註9 小諸市教育委員会(1983)『曽根城遺跡』註10 佐久市で北近津4棟。三塚三塚2棟。上桜井北9棟・下小平1棟・三塚町田1棟・跡部町田5
‐棟・市道7棟・舞台場10棟、小諸市で関口33棟・宮ノ北2棟・五ケ城3棟・曽根城1棟、自田町で井上3棟の51棟報告されている。註11 清水田遺跡の3棟と中道遺跡の1棟は、報告書が未完のため除いてある。註12 佐久市で上桜井北8棟。三塚鶴田4棟。戸坂4棟・周防畑A4棟・儘田4棟・三塚三塚1棟。今井茜原3棟・蛇塚B5棟・舞台場20棟の53棟。小諸市で宮ノ北6棟・関口B3棟・五ケ城11
棟。曽根城6棟の26棟。望月町で犬飼3棟。新水5棟・又久保1棟。金塚3棟の12棟。川上村の本遺跡を加えて合計92棟報告されている。註13 比較的良好な状態で検出された例は、跡部町田■1号住・下小平Hl号住。清水田H2号住・五ケ城第7号住。新水A第1号住がある。註14 藤沢平治氏の御教示による。註15 五ケ城第7・14号住では梁、棟、桁材の一部と思われる炭化材が検出されている。註16 屋根の構造は秋田県脇本小谷地違跡埋没家屋第二家屋に類似しているように思われる。永井規男(1975)「秋田の埋没家屋」『家』社会思想社註17 註2に同じ。註18 平井聖(1975)「床の構造よりみた古代の住居」『家』社会思想社註19 高橋光男・熊野正也(1983)「板床存在の疑いがある竪穴住居について」『史館第14号』市りllジャーナル社註20 佐久市教育委員会(1978)『上桜井北』註21 小諸市教育委員会(1981)『宮ノ北』註22 小諸市教育委員会(1980)F関口B』註23 真間期の住居址については、近年、該期の報告例が知られるようになり、佐久市の舞台場遺跡9棟、小諸市の宮ノ北遺跡1棟。曽根城遺跡6棟と計16棟報告されている。註24 佐久市教育委員会(1980)『周防畑遺跡』註25 佐久市教育委員会(1972)『北近津・戸坂』註26 佐久市教育委員会(1983)『舞台場』註27 望月町教育委員会(1982)『金塚遺跡』註28 佐久市教育委員会(1980)『蛇塚B』註29 丸山日出夫(1981)「長野県頭殿沢遺跡における竪穴,犬遺構(1)」『日本建築学会北陸支部研究報告集第24号』‐註30 佐久市教育委員会(1976)『三塚鶴田』註31 上桜井北H2・11。13・15号住、三塚鶴田H4号住、戸坂Hl号住、儘田Hl・2・3号住、三塚三塚H2号住、今井西原H4。5号住、舞台場H14号住、宮ノJヒ第9号住、五ケ城第2・3・4号住の17棟。註32 資料数が55と少ないため早急な判断はできないが第17図から便宜的に下記の分類を使用する。(最低辺長) (最大辺長)
小型住居址210〜265 Cm 258〜312 cm
中型住居址250〜400 cm 308〜490 cm
大型住居址410〜540 cm 460〜559 cm
超大型住居址600 cln以上600 cm以上註33 笹森健一氏がいわれているような「頂点にある棟木1本で垂本を支えた場合、主柱が不必要となり、いわゆる無柱穴の住居となる可能性がある」上屋構造の考え方もできる。上福岡市教育委員会(1981)『埼玉県上福岡市内遺跡群埋蔵文化財の調査(Ⅲ)』註34 永峯光一・鈴木孝志(1957)「長野県埴科郡松代町西条地区入組稲葉遺跡調査概報」『信濃9‑4』註35 桐原健(1968)「平安期に見られる山地居住民の遺跡」『信濃20‑4』註36 田中啓爾(1930)「中央日本に於ける高地の人文地誌学的研究概報」『地理学評論第6巻8号』に書かれているが、大正9年野辺山板橋ザッコ沢の1,320mの高地において井出沢伊助氏が水田を作ったとされており、現在は行なわれていないが川上村におしヽても1,300m以上の高地に水田が作られていたとされる特殊例はある。註37 信濃史料刊行会(1954)『信濃史料第5巻』註38 佐久平における古墳の築造は、土屋長久氏も述べているように「水稲農耕による経済力の充実、蓄積なくしては考えられない」土屋長久(1970)「信州佐久平の後期古墳群について」『信濃22‑5』とされており、佐久地方の最高地の古墳は、小諸市諸甲の天池(一杯水)1・2号墳(標高940〜960m)であるが、これは生活址を見下ろす所に構築されたものと考えられ水稲耕作の高距的限界とは直接関係ないものと考える。また、南限とは佐久地方において南に下るほど秩父山系及び八ケ岳山麓に近くなり標高が高くなるため水稲耕作の限界がどこまでできるかの目安となる。註39 この場合高地性遺跡という名称が古くから使われているが、瀬戸内地方の比高差の高い遺跡の名称と混同じやすいため高地遺跡とした。また、従来の高地性遺跡の名称は、各時代にわたって使用されていたがこの基準はあくまでも稲作の高距的限界で定義したものであるから、その意味で弥生時代以降を主に適用してゆきたい。註40 文化庁文化財保護部(1983)『全国遺跡地図―長野県―』文化庁註41 長野県(1981)『長野県史考古資料編全1巻(1)遺跡地名表』長野県史刊行会註42 奈良時代の遺跡については、近年知られるようになってきたが、まだその数は多くなく統計処理の意味がないため省く。註43 高地遺跡と遺跡数の算出資料が同一でないため正確な数字ではないが、一応の目安として統計処理を行なった。註44 山地とは、山口源吾氏(1974)が『高距限界集落』の中で「一応、標高400m以上で山稜とこれに隣る谷底との標高差が100m以上の所とする」と定義しているが、その文意がよくのみこめないため、便宜的に標高400m以上で広い沖積地から離れた山中に存在する集落を山地集落とし、今後検討したい。註45 長野県(1982)『長野県史考古資料編全1巻(2)主要遺跡―北。東信一』長野県史刊行会註46 塩尻市教育委員会(1980)『中島遺跡』註47 中山吉秀(1976)「離れ国分考」『古代61』の中にある離れ国分遺跡一覧表による各遺跡の標高は400m以上を有するものは1ケ所しかなく長野県で検出される小規模な山地・高地集落にそのままあてはめることはできない。‑45‑註48 位沢、横尾、山本畑2号住、熊倉1〜6号住、里宮、兵士山、オ堀、新水Al〜4号住、同B
l号住、沖ノ沢、竹之城原、七本松3号住、八丁原、池尻、稲葉S住の23棟でこのうち熊倉遺跡についてはカマドの詳細な報告はないもののかなり大型の石組カマドが5棟あると報じられている。註49 大場磐雄(1954)「灰釉陶器の諸問題」F地方研究論叢』註50 信濃史料千J行会(1956)『信濃史料第1巻考古篇上』註51 檜崎彰一(1968)「甕器の道(1)」『名古屋大学文学部二十周年記念論集』註52 林和男氏(1977)が『菅平高原山本畑遺跡』の中で「上小地方のこの時期のすべての集落址々ヽら灰釉陶器が出土しているといっても過言ではない」としている。註53 宮下健司氏の御教示による。註54 赤羽一郎氏の御教示による。註55 註51に同じ。誰56 註54に同じ。註57 入間田宣夫(1976)「平安時代の村落と民衆の運動」『日本歴史4古代4』岩波書店註58 能登健(1983)「熊倉遺跡の再調査」『群′馬文化193』4 御所平の流人伝説と地名はじめ、Ⅲ章2歴史的環境の中で、横尾遺跡に近い信州峠や、小尾道について甲州側には口碑伝説が多いが、信州側には皆無だとかいておいた。ところが、小尾道と直接関係の有無は別として、御所平に古くから流人伝説があるので記しておく。小尾道は信州往還とも呼ばれ、御所平はその重要な宿駅に当り、ここを基点として十文字。十石・碓氷峠等への通行が想定されていた。そして黒森から12キロといわれる道路は、峠の手前から黒沢川の流路に沿つてその両岸に拓かれ御所平に到着している。御所平は確かに甲州佃1の古文書に多く出てくるように、小尾道を中心に重要な宿駅であり、通路の横尾山は、古くから牧場として、また、本材や桶子材の採取場として御所平にとつて関係の深い土地であった。12世紀の中頃、保元の乱に破れた崇徳上皇は、讃岐に流罪されたが皇子重仁親王の行方については流罪とも戦死とも知られていない。その重仁親王が、僅かの主従で落ちのびて住まわせられた土地が、この御所平という地名の発祥であると伝えられる。同じ筋の伝説が、隣り合わせの北相木と南相本の両村に伝えられていて、ゴ跡目木より南相本へ、更に峠を越えて御所平に移られたという。親王が越えて来たという峠を臨幸峠と呼んでいる。親王峠の嶺で、はるばる都の空を顧みて感懐を込めた歌を、うちびさす都をいでて千曲川かみつせ遠くわれはきにけりと詠ませられた。戦時中佐久に疎開されていた、佐藤春夫先生は重仁親王の事蹟を尋ねて、幾度も川上村に足を運んでいるが、先生の小説『佐久の内裏』の中でこの歌について、格調の高い貴人の歌であると激賞している。保元の乱には佐久の武士も多く参戦し、御所平の地名も出ているという。重仁親王は再起の夢もはかなく此地に登邁され、内裏山の麓に葬り、幾歳月を経て後、弘治元年(1555)に至り栄上に一字を建て、天児屋根の命、応神天皇の二神を鎮め御霊宮または御陵社として祭った。ところが元録年中内裏山の山火事で類焼し宮殿、宝物等が焼失し、再建の後再び元治元年(1864)の大暴風で社本と共に社屋も倒壊した。なお古記録については、明治の中頃、丸山某という地方の歴史家に調査研究を依頼したまま死去され、行方不明になったと伝えられている。御霊宮は寛永6年(1629)の幕府検地では、高七斗五升除地になっている。当時は、十数名の社地作人が有り棟札に残っているが、維新の改革で土地され、現在は僅かの山林と昭和の初め建替えられた本造神明造りの社が残されているのみである。御所平には、この伝説に由来するという地名が多く残されている。村名の御所平・本郷。内裏山・じんでぐち0大かいと・馬場平・詰堀。大門先・鷹揚場・鷹放。天主の台・兵部。天神林などでこれは『南佐久郡古城址調査』に取りあげられた地名で、同書には「相当の地位があり、勢力のあった豪族が居住し、御所平は深い関係があったであろう」と書いてある。この他にも中世以来の古い小字名が幾つもあるように思われるが、もっと重要なことは古文書にも、イヽ字名にも書かれなかつた地名というものが調べてみると沢山あるのではないかということである。筋違いかも知れないが、そういう地名を少し詮索すると大かいとの申になかごや"
とよばれる場所があり、かなやま"という場所にはかってかなやまさま"の祠が祭ってあった。向い合う山をかじやばやし"と呼んでいるのも無関係ではない。『南佐久郡古城址調査』で詮索しあぐんで、伝説の古城址という位置を想定したのだが、実際には見当はずれの場所にしろした"という地名が伝えられて、千曲川を隔て大門先に対している。以上の他にもまだまだ有ると思うのだが、肝心なことは是等の地名は、既に文書からも大方の人々からも忘れられて、僅かにそこの土地の幾人かの耕作者によって伝えられ消え去る寸前にあったものであることを知つていただきたい。(由井茂也)
参考文献藤田佳久(1981)『日本の山村』地人書房森嶋稔(1983)「弥生以降の高地性遺跡アラカルト」『しなのろじい200号』小野武夫(1936)『日本村落史概説』岩波書店竹由且(1967)『日本の家と村』岩崎美術社井上鋭夫(1981)『山の民・川の民』平凡社宮本常一(1964)『山に生きる人々』未来社宮本常一(1966)『村のなりたち』未来社橋口定志(1978)「暇度の宿小考」『貝塚18』井上修次(1934)「本邦最高地域の居住状態と居住上限界の分布について(I)。(Ⅱ)」『地理学評論第10巻8・9号』塩尻市教育委員会(1982)『舅屋敷遺跡発掘調査報告書』能登志雄(1952)『衆落の地理』古今書院網野善彦(1975)「中世初期における鋳物師の存在形態」『名古屋大学日本史論集』戸田芳実(1967)「山野の貴族的領有と中世初期の村落」『日本領主制成立史の研究』甲斐国誌編纂委員会(1971)『甲斐国誌』信濃教育会南佐久部会(1935)『南佐久郡古城址調査』=志茂樹。小穴芳実(1976)『乗鞍の自然と文化』長野県―‑48‑図版一連理跡横尾遺跡遠景(北方より)
2.遺跡からの遠景(東方を望む)
4.遺跡全景(北方より)
3.遺跡近景(ゴヒ東より)
図版二山灰化材1.炭化材全景(東南より)
北壁から弯曲して落ち込んでいる炭化材図版三山灰化材oカマドカヤ状炭化物1,床材(南より)
2.Hl号住居址カマド図版四連E構・スナツプoHl号住居址出土土器5.スナップHl号住居址(南方より) 2.Hl号住居址(西方より)
3.Dl号土壊集石遺構6.スナップ7.Hl号住居址出土土器8.Hl号住居址出土土器tr図版五遺跡周辺の既出資料Ⅲ鼎鮒鼎一ヽm=図版六連理跡周辺の既出資料長野県南佐久郡川上村横尾遺跡昭和58年11月1日発行編集者佐久考古学会発行者川上村教育委員会印刷所信毎書籍印刷株式会社
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副書名 :
巻次 : 7
シリーズ番号 :
編著者名 :
西崎 卓哉
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加藤 優
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木村 泰彦
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林 亨
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定森 秀夫
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野島 稔
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野田 芳正
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加賀見 省一
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潮崎 誠
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西口 和彦
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服部 哲也
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梅本 博志
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伊藤 秋男
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木村 光一
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小畑 頼孝
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磯部 武男
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八木 勝行
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栗野 克己
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田中 正夫
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松浦 俊和
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進藤 武
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北川 浩
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奈良 俊哉
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白井 忠雄
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市沢 英利
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花篭 博文
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鎌田 祐二
発行(管理)機関 : 奈良文化財研究所 - 奈良県
発行機関 : 木簡学会
発行年月日 : 19851125
作成日 : 2021-03-10
善昇当魯升聾木簡学会題字藤枝晃刻巻頭≡ローー刀筆の吏一九八四年出上の木簡概要凡例奈良・平城官上八跡奈良・平城京跡奈良・奈良女子大学構内<b>遺跡</b>奈良︒法貴寺<b>遺跡</b>奈良・藤原官跡京都︒長岡京跡①京都・長
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副書名 :
巻次 :
シリーズ番号 :
発行(管理)機関 : 神奈川県考古学会 - 神奈川県
発行機関 : 神奈川県考古学会
発行年月日 : 20110306
作成日 : 2017-03-30
政選挙(2005)、政権交代(2009)・・・○主な考古学のできごと〜<b>登呂遺跡</b>(1944)…吉野ケ里<b>遺跡</b>、長屋王邸(1986)、三内丸山(1992)、池上曽根大型建物(1995)、旧石器裡造事件(2000)、歴
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副書名 : 前橋市立元総社保育所移転に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書
巻次 :
シリーズ番号 :
編著者名 :
金子 正人
発行(管理)機関 : 前橋市 - 群馬県
発行機関 : 前橋市埋蔵文化財発掘調査団
発行年月日 : 19870320
作成日 : 2015-12-09
高崎市目高町弥生中世条里制水田が確認された。22 前箱田<b>遺跡</b>前橋市前箱田町平安中世耕作状遺構23 村前<b>遺跡</b>〝箱田町平安浅間B軽石下の水田祉と畝状遺構24 五反田<b>遺跡</b>〝〝〟浅間B軽石下の水田址25 生川<b>遺跡</b>〝南町古墳平安古墳時代〜平安時代に及ぶ住居址御布<b>呂遺跡</b>
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本文頻出用語
平安時代 106
古墳時代 59
須恵器 58
底部 56
土師器 55
口縁部 42
柱穴 42
土坑 38
縄文時代 37
包含層 36
胴部 32
体部 31
弥生時代 30
掘立柱建物 28
シルト 26
口縁 24
胎土 24
ナデ 23
奈良時代 23
住居跡 22
発行機関
青森県 1
岩手県 1
宮城県 3
秋田県 1
山形県 1
福島県 2
群馬県 4
埼玉県 3
千葉県 1
東京都 1
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報告書種別
発行年
1975 - 1979 4
1980 - 1984 11
1985 - 1989 21
1990 - 1994 14
1995 - 1999 13
2000 - 2004 8
2005 - 2009 10
2010 - 2014 10
2015 - 2019 6
2020 - 2024 7
編著者名